わらうき2

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 俺がそう言うと、綾科さんはほっとして微笑んだ。俺も思わずつられて微笑んでしまった。
「それでは……いただきます」
「はい。私も」
 暫らくは二人とも口をきかずに食事する。……うまい! 久々の手料理に感激してしまう。
 どうやら綾科さんはおしゃべりではないらしい。助かる。うるさい女は苦手だ。
「−−一人暮らしなんですか?」
 あまり黙っていると雰囲気が暗くなるので話かけてみる。
「はい。母は私を産んですぐに亡くなって……父は今外国へ−−」
 わーはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっは

「…………」
「…………」
 い、今のは……一体……一体何々だ!?
「……こ、こんなのは……こんなに大きな声は……初めてです」
「−−それは良かった」 
 毎日毎日、これをやられりゃ……狂っちまうぜ。
 −−忘れよう。今のはきっと、一時的な悪夢だったんだ。
「−−で、何の話だったかな……。そうそう、あなたのお父さんは外国で?」
「外国で商社に勤めてるんです」
「じゃ、心細いですね」
 綾科さんは黙って頷いた。
 そんなこんなで世間話をする。そうしてふと時計を見ると−−夜の十時になっていた。
「−−もう笑いませんね。今日はもう笑わないのかな?」
 俺がそう言うと、綾科さんは少し困ったような顔をしてこくりと頷いた。
「いつもはちゃんと笑うのに……」
 ……ちゃんと笑う……。−−笑って欲しくなどない。絶対。
「本当なんですよ!」
 綾科さんは真剣な顔で身を乗り出して俺に訴えかけた。
「−−誰も嘘だとは言ってませんよ。先刻のあれがありましたからね」
「……はい。……でも、何で、今日は……」
「とにかく−−」俺はちらりと腕時計を見た。「今日はこの辺で引き上げます。どうも、うまい料理ごちそうさまでした」
 俺は立ち上がり、綾科さんも立ち上がり、二人して、玄関に行く。
「渡真利さん」
 靴を履く俺に、綾科さんは真剣な声で呼びかける。俺は振り返って綾科さんを見た。
「明日も……来て頂けますか?」
「−−」
 ……そういう顔をされると……。
「来ますよ」
 −−!? 今、俺は何と言った!?
「−−有難うございます!!」
 そんな嬉しそうな顔をされたら……来ない訳にはいかない、よな。やっぱり。
「それじゃ、亦、明日」
 もう諦めて、ドアを開けて、綾科さんに言う。
「おやすみなさい」
 外に出ると、春の風が、ふっと吹いた。どちらかというと生暖かい、気持ち悪い風だった。
 しかし……笑う木だなんて……怪談にもならんぜ。全く……明日もあの笑いを……。……。
 除霊者、か−−そういや、幽霊とかそういうのに詳しい奴がいたな、高校に同級生で−−ああ、小村だ。そうだそうだ。住所、変わってなけりゃいいが……。


 時々、俺は自分の几帳面さを恨みたくなる。「苦情係ならそれくらい律義でもいいじゃないか」と言う奴もいる。しかし……何で訳の判らん笑う木と付き合わなきゃいかんのだ?
「笑う木か……そりゃ面白い」
 昼休み。近くの定食屋で俺と小村は笑う木の話をしていた。小村の奴は相変わらず憑依だの降霊だの背後霊だの、怪しい世界に足を突っ込んでいた。
「面白い、って……そういう次元の話じゃないんだが……」
 俺にとっては面白いどころか、迷惑千万、どうにかして欲しい話だ。
「あ、いや、すまん。今迄にない珍しいタイプの話だったんでな」
 ま、その辺に笑う木がゴロゴロしてるとは思えんが……。−−ゴロゴロしてたら……恐怖だ。
「−−で、何とかなるか?」
 恐る恐る小村に尋く。此処で「何ともならん」なんて返事が返ったら、机をひっくり返してしまうだろう。
「うーん、判らん。お前の話だけじゃな……。多分、何かの霊がとり憑いたんだと思うんだが……。しかし、同じとり憑くにしたって、木に憑く、ってのがな。木霊が笑ってる、って考えてもいいんだが……笑う木霊、ってもの聞いた事がない」
「木霊?」
「木の精だよ」
「……木の精、って……本当にいるのか?」
 俺は驚いて言った。
「まあな。−−その存在を感じる奴は殆どいないが」
 一瞬、俺の頭の中をあるイメージが走った。白髪、白髯の木の精がわーはっはっはっはっと笑い、その周りを小さな羽の生えた妖精達が飛び回って同じようにわーはっはっはっはっ……。−−。考えたくもないのに、どうして、俺の頭は勝手に……。
「どうした? 何落ち込んでるんだ?」
「いや−−ちょっと想像したもんでな」
「……ま、とにかく、その笑う木、ってのを見せてもらうよ。何かの霊だと思うけどなあ……。−−今から行くのか?」
「いや。俺はまだ仕事がある。六時過ぎぐらいに修田駅の改札で待っててくれ」
「ああ、判った」
 小村は立ち上がった。俺も立ち上がる。
「しかし−−」
 小村は笑って俺の顔を見た。
「何だ?」
「苦情センターも大変だな笑う木に付き合わなきゃいけない、ってのは」
「−−仕方ないだろ。途中で投げ出すわけにもいかないんだから」
「ま、な」
 小村は軽く笑った。
 俺達はそうして店をでた。


「これですか、その、笑う木ってのは」
 小村はそう言ってこんこんと軽く木を叩いた。綾科さんはこくりと頷いた。
 庭にはその木の他に梅、木蓮、さるすべりなどが植えてある。亦、隅の方には花壇もあって、秋桜が咲いている。
「しかし、笑う銀杏なんて、ゾッとしないな」
 小村は半信半疑の様子で言う。しかし、突然真面目な顔になって木を見つめた。
 ざわざわざわ−−風もないのに銀杏の木が揺れた。
 −−来たか!?
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは

「−−止んだ」
 俺はそう言って小村を見た。
「……」
 自失茫然となっている。ま、当然といえば当然の反応だろう。しかし、昨日の笑いよりはましな筈だ。
「成程。こういう笑いが何度も続くわけですか」
「はい」
 小村は早々に復活して再び木をしげしげと眺めた。
「悪霊−−のじゃないみたいだ。それらしき妖気が感じられん。何か、もっと別の異様な雰囲気−−」
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは

「‥‥‥‥」
 大笑いによってもたらされた自失茫然の沈黙の時間は約十秒もの長さにおよんだ。
「−−何……何々だ!? 今の笑いは!?」
 小村が俺につかみかかる。
「お、おれが知るわけないだろっ! 俺だってこんな笑いとはさっさとおさらばしたいんだ! 綾科さんだって−−毎晩毎晩この笑いに堪えてきたんだ! この笑いを何とかする為に、わざわざお前を呼んだんだぞ!!」
「−−」
「−−すみません。私が渡真利さんに電話したばっかりに……。でも、本当に、原因が判らなくて、どうしようもなくて……」
 小村は俺の襟首をつかんでいた手を放した。あー、苦しかった……。
「そうですか……そうですね……。渡真利、すまん。ついカッとなって」
「いや。−−気持ちは判るから……」
 小村は小さく咳払いした。話題を換えようとしての事だろう。
「−−多分、何かが、この木にとり憑いているんでしょう。何か、心当たりは?」
「いえ、それが……」
 綾科さんに否定された、小村は困った様子で頭をポリポリ掻いた。
「しかし、理由もなしに、突然木が笑う、っていうのは……ね」
 たしかに、理由もなしにそんな非常識な事が起こりだしたら−−世界の破滅は近いぞ。
 小村は不思議そうな顔をしてキョロキョロしている。
「−−どうかなさったんですか?」
 綾科さんが小村に声をかける。
「え、いや……」
「どうした?」
 俺も小村に尋く。
「いや……どうやら……この笑いは……俺の考えによると、実際の声が辺りに響いて、俺達の耳に入ってるんじゃなくて、直接俺達の頭に入ってるみたいだ」
 一瞬、小村の言っている事の意味が理解できなかった。
「……じゃ、この笑いは、俺達にしか聞こえない、っていうのか?」
 何だって、そんな面倒な事を……。
「ああ、だいたい−−周りの家の反応を見てみろよ。あれだけの大声だぜ。向こう三軒に聞こえてもおかしくともなんともない。−−なのに、苦情の一つどころか、窓を開ける家すらない。絶対、聞こえてないんだ」
 −−……。
 ま、「隣の家の木が笑うんです!」なんて苦情が入ってくる事を考えれば−−まだましだろう。しかし……。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 綾科さんが俺と小村を見て口をはさんだ。
「何ですか?」
 小村が綾科さんを見る。
「それがもし本当だとすると−−どうしてその笑いが渡真利さんと小村さんにも聞こえるんですか?」
 −−沈黙。
「だって……もし、相手を選んで笑いを聞かせているのなら……お二人は私とは全く無関係ですし……」
 ……沈黙。
 −−そうだ。何故、俺や小村まで、この訳の判らん笑い声の生贄にならなきゃいかんのだ?
 小村もその事を不思議に思っているに違いない。
「ま、今はその事は置いておきましょう。−−とにかく、笑う、って事は、この木にとり憑いているのは人間だ、って事ですね」
 おっ。話題をそらしたな。−−ま、気持ちは充分判るんだが……。
「でも、狐とかでも笑うんじゃないのか?」
「『わーはっはっはっはっはっ』ってか?」
「−−」
 考えたくない、考えたくない。……。
「−−と、すると……やっぱり、何か綾科さんに関係があるんだろうな」
 俺がそう言うと、小村は頷いて、綾科さんの方を見た。
「この銀杏の木は−−何処から手に入れたんですか?」
 あんまりそんな事尋いても仕方がないと思うが。少しでも手掛かりが欲しいんだろうか。
「え……それは……確か、パパがグラン・パ−−いえ、父が祖父から譲り受け−−」
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは

「………」
 一日に何回も聞くもんじゃないぞこういうのは。……。できる事なら一回も聞きたくないが……。
「−−ゆ、譲り受けて、此処に植えたんです」
 綾科さんはまるで何もなかったのだ、と言いたげに話を続けた。例え、多少声に動揺が含まれていたとしても、その努力はたいしたものだ。
「えっと、そのパパ−−じゃなくて、お父さんは今は、確か−−」
 小村もぎこちなさを隠して笑顔で言った。
「外国で商社に勤め−−」
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは
 わーはっはっはっはっはっはっは

 −−。もう、誰にもこの笑いは無視できんかった。
 小村が顔を上げた。
「だー、もー、うっせーな! 黙らんかいっっ!!」
 −−お、おい……。 

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