わらうき 1

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 俺は落ち込んだ気持ちでゆっくりと歩いていた。足が進む事を嫌がっている。
 全く……自分が生活苦情係なんてやってる事をこんなに悔いたのは初めてだ。
 そう。全ての原因は−−昨日の電話にあった……。


 六時を少し過ぎた頃。殆ど人のいない事務室で俺は苦情の資料整理をしていた。
「おい、渡真利。今晩、飲みに行かんか?」
 同僚の一人、山本が俺に声をかける。
「おう。そりゃいいな」
 独身の一人暮らしの俺にとって、一人で飯を食うよりは気のおけない友人と楽しく夜を過ごした方がいい。
「もう終わるか?」
「ああ、もうすぐ−−」
 俺が言いかけた時、電話のベルが鳴った。
 山本と俺は顔を見合わせた。
 もし、山本と飲みに行くつもりなら、この電話は無視するべきだ。苦情受付の時間はとっくに過ぎているのだから、別に俺が受話器を取らなくても何ら問題はない。
 しかし−−人間、誰しも持っている善の心−−それが「受話器を取れ。お前は困っている人を見捨てて酒に溺れるつもりなのか?」と囁いてくる。
 −−仕方がない。
 俺は受話器を取る。山本も(仕方がない)というリアクションをした。
「はい、こちらは生活苦情センターです」
 −−あ、あの……助けて欲しいんです。
 若い女性の声。
「何を、でしょうか? 遠慮せずにおっしゃって下さい」
 −−心の中では「こんな時間に一体何の用だ! 常識ってものを考えろ! 苦情の受付時間は朝の十時から午後四時までなんだぞ!」と叫び乍らも相手に対して出てくる声は穏やかで、営業スマイルすら出ている。……ああ、自分のこの裏表のある性格が恨めしい。
 −−信じて下さい。お願いです。信じて下さいね。
 必死の声。……一体何だというんだ。
「判りました。信じます。そんなに慌てないで。一体何が起きたんですか?」
 −−木が……木が……
「木が? 木がどうしたんですか?」
 盗まれたのだろうか? 折られた、なんて下らない事でこんな時間に電話をかけてきたんなら、張り倒したいが−−ま、若い女性なら、それくらいの事でも感情的になっちまうかな。
 −−笑うんです!!
「−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−」 
“ガツッ”−−これは俺が受話器を落とした音である。
「どうした? 渡真利」
 −−幻聴なんかじゃないんです! 本当なんです! 信じて下さい! こんな非常識な時間にお電話して、本当にすまないと思います。でも、でも‥‥。嘘じゃないんです! 本当なんです! 来て頂ければすぐに判ります!
 声は耳には届くがそれがどういう意味かは全く判らなかった。俺は受話器を落としてしまった時の姿のまま凝固してしまっていた。心は真っ白で何も考えられなかった。
「渡真利? おい、渡真利!」
 山本が俺の肩を叩いた。
 それでようやく俺は我に返った。
 −−もしもし? もしもし?
 机の上に取り残されていた受話器を取る。
「はい。聞いています……」
 何故だ? 何故なんだ? 一体、俺が何をしたというんだ?
 −−どうか……お願いです。助けて下さい。
 俺の方こそ助けて下さい、だ。何だって、何だって……。
 しかし、なんとか心の中に残っていた理性と義務感をかき集めて口から出した。
「承知致しました。本日はもう業務は終えておりますので、亦、後日改めてお伺いにあがります。住所と電話番号、それとお名前をお教え頂けますか?」
 −−は、はい! 綾科京奈、鳥山町三ー五、四三ー五×××です。あ、で、できれば……笑うのは六時ぐらいからなのでそれくらいの時間に……
「承りました。後日必ずお伺い致しますので、今日のところはお引き取り下さい」
 −−はい。有難うございます。本当に、本当に……
「それじゃ」
 感謝の言葉が終わるのを待っていたら夜が明けてしまいそうな雰囲気だったので無理矢理電話を切った。
 深い溜息をつき、疲労の塊と化した体を椅子に座らせる。
「何だったんだ? 今の電話?」
「−−生活苦情だよ」
「こんな時間に、か? 非常識も甚々しいな。一体どんな苦情だったんだ?」
 俺は一瞬言葉に詰まった。しかし、言わないわけにもいくまい。
「−−木が笑うんだと」
「−−」
 案の定、山本は呆けていた。
「俺がどうして受話器を落としたか、判るだろ?」
「……本当か?」
「俺は、嘘は言ってない。向こうはどうか知らないが」
「−−木が何て笑うんだ?」
「……そこまでは聞いてない。聞く気もなかったし」
「−−いたずらじゃないか?」
「だといいが……。もしくは、電話の主の精神状態が変だった、とか」
「かもな」
 山本は軽く笑って肩を聳やかした。
 俺はほっとした。もし、今、俺一人だけで部屋に居たのならば精神に何等かの破綻をおかしていたかもしれない。人の力とは実に偉大だ。
「山本。今から飲みに行かんか?」
 俺はなるべく明るく振る舞って山本に言った。
「そうだな。仕事の事はぱあ〜っと忘れて!」
「ああ」
 そうして、山本と俺は、少なくとも表面的には明るく、夜の町へくり出したのだった。


 そう。どうしてこんな事になったんだろう。俺は、ただの偶然であの電話をとっただけだというのに……。
(ま、お前が電話をとったというなら、お前がその家に行ってこい。なーに、笑う木なんてあるわけがない。そう気にせん事だ。それより−−相手は若い女の声だと言ったな? 独身ならめっけもん、せいぜい優しくして、結婚にまでこぎつけろ。仲人ぐらいはしてやるから)
 ……あんないい加減な上司で……本当に俺、って幸せ者だよ。涙が出そうだ。
 しかし……本当に……木が笑うんだろうか? ……まさか、な。きっと、その綾科さんの精神状態が少しおかしくなってるだけだ。きっと……多分……しかし……もしかすると……。
 もし、本当に木が笑うとすれば? 絶対ない、と言いきれないんじゃないか? この作者の事だ。「私はシリアスしか書かないのよ!」と口先で言っているくせに、実際は自分のしたい放題してる−−
“ボカッ”
「−−!?」
 俺は慌てて後ろを振り向いた。……誰もいない。……今、俺の頭を殴ったのは−−誰だ!? ……。深く考えない事にしよう。
「−−此処……か」
 こじんまりした木造の平屋。小さな庭があり、木がどっしりと生えている。−−笑うとすれば、この木か……。銀杏だな。……笑うとすれば、の話だが……。
 度胸を据えて、チャイムを押−−!?
 体中を悪寒が走り、体が震えた。……この感覚……このまがまがしさは何だ……。
 一瞬このまま帰ってしまおうか、とも思った。しかし−−俺の良心はそれを許さなかった。
 チャイムを押す。
「はーい」
 家の中の方から電話の声と同じ声がした。明るい響きに少し心救われる。戸が開く。出てきたのは−−この人が電話の主だろうなあ。
「……どちら様ですか?」
 少し警戒心を覗かせた様子で俺を見る。
「生活苦情センターの渡真利と言う者ですが……お電話を頂いて今日お伺いに参ったのですが……」
 そう言い乍ら名刺を渡す。名刺を確認した途端、綾科さんの顔は喜びに輝いた。
「来て下さったんですね! 有難うございます! どうぞ、中にはいって下さい」
 この喜び様……ただものではない……まさか本当に……いや、きっと、そうは見えないが、綾科さんが変なんだ。自分で「木が笑ってる」と思い込んでいるだけだ。そうに違いない。
 取りあえず、俺は中に入れてもらう。綾科さんの他に人の気配はない。もしかして……まさかと思うが……一人暮らしなのか?
「お茶を入れて来ます。おかけになって下さい」
 俺は素直にその言葉に従った。
「二・三日前からなんです」
 紅茶とクッキーを持って来乍ら、綾科さんは真面目な顔で言った。
「どうぞ」
「ああ、どうも……」
「最初は……木がざわざわいってるんだ、って思ってたんです。でも、風のない日もなってて……耳を澄ませてよく聴いてみると……笑ってたんです」
 俺は紅茶に注いでいるミルクをとり落とした。
「あ、きゃっ!」
 綾科さんはミルク入れが入ってしまった真っ白の紅茶に驚いたのか、叫んで立ち上がった。
「あ、いや……失礼……」
 なまじっかの事では動揺しない度胸を持っている、と、自分では思ってたんだが……。この世には、俺には到底理解できないような、理解したくないような世界があるに違いない。
 俺はスプーンでミルク入れを取り出した。
「お取り替えしてきます」
「いえ−−よろしいです。自分でしでかした事ぐらい、自分で責任をとらないと……。どうぞ、続けて下さい」
 そう言って、紅茶をスプーンでかきまぜて、一口、口をつける。案の定、ミルクの味しかしない。
「はあ……。それで、最初はそんな具合だったんですが、そのうち−−その声が大きくなってきたんです」
「−−」
 綾科さんはちらりと俺を見て、亦眼を伏せた。
「それで……たまらなくなって『黙って!』って言ったら黙るんですけど……でも、暫くすると、亦笑いだして……」
 ああ。
 これが夢ならいいのに。
 これは夢であるべきだ。
 どうか夢であってくれ。
「だいたい、夜の六時ぐらいから、九時ぐらい迄……断片的に笑うんです」
 頭がくらくらする。−−しかし、ここ迄足を突っ込んだ以上、逃げるわけにもいかないだろう。
「……どうしてそんな事になったか、原因は判らないんですか?」
「……判らないんです。判らないから、どうしようもなくって……」
 まあ、それはそうだろうな。
「その声に聞き覚えはありませんか?」
「……何処かで……昔、聞いた事があるような気がするんですが……それが誰だったか……」
「−−じゃ、何かの祟り、とか」
 俺がそう言うと、綾科さんは驚いた顔をした。
「私……何かバチ当たりな事をしたのかしら?」
「いや、それは判りませんが……」
 しかし、バチが笑う木、ってのは……本当に判らん……。
「それじゃあ、除霊者に頼む、とか……」
「そうですね。それがいいじゃないですか。そーですよ。これで問題は解決しましたね。いやー、めでたい。そうですか。じゃ、そういう事で私は−−」
「ま、待って下さい! 一緒にいて下さい! 一人じゃ心細いんです。それに……除霊者、って、何処に頼めば来て頂けるんですか?」
 縋りつくような、助けを求める眼。−−いかん。俺はこういう眼に弱いんだ。
 軽く溜息をついて再び腰をおろし、ミルク味の紅茶を飲む。さて−−如何しよう?
「私も除霊者とかそういう類は詳しくないんですが……判りました。調べておきます」
「本当ですか!?」
「−−は、はい……」
 ……俺は……俺は、今、何と言った? 「調べておきます」だと  冗談じゃない。何で俺がそんな面倒臭い事をしなきゃいかんのだ!? ただでさえ、雑用を押し付けられてへーこらしてるのに、これ以上、除霊者だの霊感者だのの事を調べなきゃいかんのだ!?
 心の中では必死に叫び乍らも、しかし、俺は何も言わなかった。
 日はもう暮れている。
「あ、あの、晩御飯、もうお召し上がりになりました?」
「え、いや、まだですが……」
「じゃ、一緒に食べませんか? 私、いつも一人で淋しくって……」
「え? あ、はい」
「有難うございます」
 綾科さんは嬉しそうに台所に行く。
 助かった。今日の晩飯は安泰だ。俺は独身の一人暮らし、ついでに言うと恋人もいないので晩飯といえば、外食ばかりだ。これはラッキーとしか言う他ない。
 しかし……女性と二人きりで食事、と言うのは……初めて(勿論、おふくろは除く)じゃないか? ……初めてだ。
 う……そういう事を考えると緊張してくる。そうだ。別に、緊張するような事じゃないんだ。俺はただ、仕事で−−……。
 思い出したくもない笑う木の事を思い出してしまった。……どうして俺って、こう……。
「はい、どうぞ」
 綾科さんはにこにこ笑って台所から料理を持ってきた−−う……腹が鳴る。
「速かったですね」
 すぐさまがつつくのも恥ずかしいと思い、一言そう言った。
「実は……殆ど昨日の残りなんです。どうしても一人だと、たくさん作って残しちゃって……すみません」
 綾科さんは恐縮して言う。昨日の残りだろうと何だろうと、食べるものには変わりない。
「いや、構いませんよ。むしろ、突然やって来たのにお料理なんて出してもらって、悪いぐらいです」

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