もげる (3)

  その4 トップ 創作世界 その2

「行くな! 行っちゃ駄目だ!」
「行くんだ! 行かせてくれ!」
 二人の人間。おれと誰か。行かせたくないおれ。行きたい誰か。
 何処かで見た事のある状況。――そんなはずはない。
 大体、この場合状況というものが存在していると言えるのか。
 全ての感覚の疎外された空間。その中に存在するおれと誰か。
 そしてもう一つ。この、不定の環境に存在する空間とは「異なった」空間。
 おれが止めようとしている誰かはおれの制止を聞かず、あそこへ行くつもりなのだ。
 理由は判らない。存在するのかしないのか判らない理由になど気を回している場合ではない。問題は誰かがあそこへ行こうとしている、という事だ。
 行かせてはいけない。どうしても。
 おれ自身、この衝動がなんなのか説明の付けようがない。ただ、誰かをあそこへ行かせてはいけないのだ。あそこで待っているのが何であろうと行かせてはいけない。一生遊んで暮らせる金銀があろうと、不老不死の薬があろうと、桃源郷が存在しようと。
 おれは誰かを此処に留めるために存在するのだ。
「行くんじゃない!」
 おれは叫ぶ。手を引っ張る。
「行かせてくれ!」
 反対に引っ張り返され転ぶ。そのままずるずると引っ張られる。
 出来ることなら説得したかった。いかにあそこへ行くのが恐ろしいのか言ってやりたい。
 だが、何故行ってはいけないのか、おれ自身判らないのだ。恐ろしいと感じているのはおれだけで、しかも何故恐ろしいのか説明のしようがない。
 上手く何某かの理由を作り上げてしまおうとも思うのだが、そんな知略を働かせているうちに体への集中力がなくなり、誰かの強い力に引きずられて誰かはあそこへ行ってしまうだろう。そんな余裕はないのだ。
「どうして行こうとするんだ!」
 誰かを突き飛ばす。倒れた誰かに馬乗りになる。
「どうして行かせてくれないんだ!」
 信じられない馬鹿力で上下が逆になる。
 きりのないもみ合い。時間の感覚などとうの昔になくなった。そんなものはない方がよい。運が良ければ永遠に続く。
 誰かは向こうへ行こうとする事を決してあきらめはしないだろう。
 おれも誰かを此処に引き止める事を諦める気など毛頭ない。
「行くな!」
 誰かの手を引っ張る。
「放せ!」
 腕を振りほどこうとしながら誰かは進もうとする。
 誰かは自分の体に頓着する様子がない。それだけ強い思いで向こうへ行くことを願っているのだという言外の含みなのだろう。おれだって想いの強さは誰かに決して劣るものではない。たとえこの体引き裂かれようとも誰かを阻止するつもりだ。
 精神的な想いがおれと誰かの力のバロメーターであるというのなら、その強さは全くの互角と言うほかないだろう。
 広さもしれぬ空間で、こんな大きな心を抱えながらこんな小さな体でちまちまと争っていることが情けなかった。この想いの大きさでこのまま誰かをくるんでしまい一歩も動けなくしてやりたい。――だが、そんなことは叶うはずもなく、心の大きな期待をこの体に凝集させ誰かともみ合っている。
 おれは「どうしても」誰かをあそこへ行かせたくない。
 誰かは「どうしても」あそこへ行きたい。
 手を引っ張る。引っ張り返す。投げる。転ぶ。這っていく。足を掴む。蹴る。走る。タックルする。二人して転がる。
 殴る。叫ぶ。叫び返す。睨み合う。足を引っかける。肘鉄を食らわす。ひっぱたく。ひっかく。膝蹴りをする。関節技を掛ける。
 首を絞める。頭を締め付ける。腹を殴る。足からすくう。投げる。
 朦朧として立ち上がろうとしている間に誰かは駆け出す。――まずい!
「行くな、って言ってるだろ!」
 あと数歩で「異なった」空間、というところでおれはようやく誰かの腕を掴んだ。
 ここで踏ん張らなくてはどうしようもない、という極限状態にあっておれの力は最大値を示した。
 一歩、二歩と向こうから遠ざかる。おれは最後の最後で間に合ったことに満足を覚えた。
「バカヤロー! どうしておれがあそこへ行くのをお前は止めるんだっ!」
 ――!
「――!?」

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