もげる (4)
ふと気が付くとおれは一人だった。 「異なった」空間はどこかに姿を消した。誰かの存在に満足して行ってしまったのだろう。 名もない空間。名もないおれ。存在自体が疑わしい。そうだろう。おれは、おれの存在を証明する誰かを失ってしまった。 ……おれのせいだ。 あの眼。 決して忘れることはできないだろう。終わることのない意味のない肉体を持て余す一生の残りを、おれは誰かのあの眼に苛まれ続けて過ごさなくてはいけないのだ。 ――何故、手を離した。 確かに、誰かは向こうに行くことを望んでいた。だが、それ以上におれに止めてもらうことを願っていたのだ。願う――そうではない。止めるものだと信頼していたのだ。 誰かは向こうに行くことに関しての全ての責任を負うていた。 同様に、おれは誰かを引き止める事に関しての全ての責任を負うていた。 何故、それを放棄した? おれは、一体何を恐れていたのだ? おれが誰かを、誰かがおれを失ってしまう事以上の恐怖が存在すると思っていたのか? どんな事態が起ころうとも、おれと誰かがいれば何度でもやり直しはできた筈なのに。 やり直し。 おれは何かに怯えていた。そのおびえに正体を失い、果たすべき義務を放棄してしまった。 そして――あの眼。 突然負荷を失った体は解放の喜びに五メートルにも充たぬ距離を簡単に走り抜けていった。心はまだ残ろうとしていたのに。 おれは二三歩後退して勢い余ってしりもちをついた。 その一瞬間、誰かはおれを見つめていた。おれの責任放棄を信じられない様子で。 ――もう少しして、誰かが情況を把握したとき、誰かはおれに恨みがましい視線を向けただろう。だが、おれにはそれすらもないのだ。放棄した責任の後始末をつける事もできず、自分の良心を自分で縛り付けるしかないのだ。 おれは、一体、何を恐れていたのだ? ……。拒否。 誰かの意思によるものではなく、全く意味のない、突発的な拒否。 それが施行された時、おれは一体何を恨めばいいのだ? おれと誰かの存在価値は互いを認める事以外に何処にも存在しないのか? あり得る筈もない事態におろおろと翻弄されなくてはいけないのか? ――二人で。 おれはそれがいやさに自分の意思で手を放した。 おれはまだいい。予期せぬ自分自身に向かう虚無はつらいものだろうが、それでも自分で選択した道だ。 だが―― あの眼。 殆ど気まぐれとも言えるおれの行動に対処できずに遠ざかって行った誰かの目。 向こうの空間がどんなものなのかおれは知らない。 知るつもりもない。 ただ、おれの存在を支え、おれが存在を支えてきた誰かが、おれのせいで受けた傷を癒せるような場所ならば……。 そして、おれは一人、突然失った負荷と、あの眼を心に刻んで意味のない肉体を持て余す限りのない一生を過ごさなくてはいけないのだ。 (おしまい) 初書き 1991.8.22-8.24. |