もげる (2)
きゅうりを力ずくで二つに割ったような、腐りかけたキャベツを落として潰したような音がして、おれの体は途端に軽くなり、勢い余って前へすっ転び、顔面を打った。 同様に、突然負荷を失った誰かも転んで尻を打ったようだった。 最初、何が起こったのか判らなかった。――事態の一端を理解してからもまだ信じられなかった。 転んだ誰かの近くにはおれの腕が二本、おれの意思とは全く関係なしに落ちていた。慌てておれはかつて腕が生えていた場所を見た。半袖のシャツの袖がひらひらしているだけであるべきものがそこにはない。何故転んだ時、床に顔面から突っ込んでいったのかようやくそこで理解できた。 「一体……何が起きたんだ……?」 誰かは思いきりぶちつけた臀部を摩りながら言った。 「腕が……もげた」 おれはそこに坐りこんだまま言った。誰かは驚くようでもなく、おれを見、自分の周りに落ちている腕二本を見た。 「どうして……そんなものがもげるんだ?」 誰かの問いかけにおれは首を振るしかなかった。おれには目の前にぶら下がった明確なる事実しか理解できない。誰かと同じ程度のことしか判ってはいないのだ。 「痛みは?」 「ない。不思議と」 痛みがないどころか血の一滴すら出ていない。誰かに頼んで傷口を見てもらおうかとも思ったがなんとなく恐ろしい事態が待ちうけているような気がしてやめた。 転がったおれの腕はおれという生体の主人を離れ、蝋人形の部品のような、ただの物体と成り下がった。おれがどんなに望んでもあの腕は一ミリとて動きはしないだろう。おれに所属していた時はあんなにもおれの思いのままだったと言うのに。 「接着剤でくっつけてみてはどうだ?」 誰かが言う。誰かは何かに怯えているようだった。何か――少なくともおれではない。恐らく、おれも持つであろう怯え。だが、今のおれには判らない。今のおれは腕がもげたという現実離れした事実にまだ茫然としている。そして、やって来るであろう現実にまだ目を向けられない。――向けたくない。 「くっつくような気もするが……接着剤なんて持ってるのか?」 誰かはひとしきりポケットを探って首を横に振った。 最初から接着剤など持っていないと判っているのだ。だが、誰かは時間を稼ごうとしてありもしない接着剤の存在を持ち出した。そして、存在しない接着剤を探した。 「接着剤なんてなくてもそのまま肩にあてがえば元に戻るんじゃないか?」 誰かはそう言っておれの肩と腕を見比べた。 おれは黙って首を横に振った。もしかするとくっつくかもしれないが一度おれの所属を離れ物体と化してしまった腕が二度とおれ自身になれる訳がない。 誰かは茫然とおれを見ていた。その不安げな目におれは堪えきれなくなり、視線をそらした。 「異なった」空間がおれの視界の隅に入った。 驚いたことに、おれはあんなにも望んでいたあの場所に行くことに対する欲望を失っていた。 「……おれを止めないのか?」 どうしようもない心の変化に動揺を隠せず、救いを求めるような気持ちでおれは誰かに声をかけた。 誰かは怯えたようにおれから視線を外した。 「……行かないのか?」 思いも寄らぬ応答におれは不審の目で誰かを見た。誰かはおれを見る。茫然とした、泣きそうな、怒ったような、やりきれぬせつなさを込めた瞳。おれと同じ心を映した瞳。 「お前の腕がもげた」 「もげたのはおれの腕だ。どうしてお前がそんなに困るんだ?」 「お前は……向こうへ行くのか?」 「どうしてそんな責めるようにしておれを見るんだ? 腕がもげてしまったのはおれのせいだと言いたいのか?」 「お前のせいでないとすれば、おれのせいなのか?」 「いや……違う。二人とも、そんなことは望んでいなかった。全く予想していなかったんだ。おれはあくまでお前が止めだてしようとするのが判っていたから向こうに行きたかったのだし――」 「おれはお前があくまで向こうに行こうとするのが判ってたからお前を止めていた」 おれと誰かはただ互いを見つめていた。 おれは確かに向こうに行きたかった。そして、誰かは確かにおれに向こうへ行って欲しくなかった。 互いの欲するところは明確な形で存在していたというのに、その二人を繋いでいたものが理由もなく弾みで切れた瞬間、目的は何処かへ姿を消してしまい、おれと誰かはそのまま見失ってしまった…… 「これはお前の望んだ事なのか? お前が行ってしまってもおれはお前を止められない。そして、おれは自分の存在価値を失った、という事だ」 誰かはかつておれの腕だったものを指差して言った。 おれは首を横に振った。 「誰がそんな事を望むものか。腕を失って、おれは腕以上のものも失ってしまった。おれを邪魔したい奴はもうこれで邪魔できなくなるだろうし、おれは望みもしない救われたがっている手を取る必要もなくなった。――だが、反対に、誰もおれの手を取れないんだぞ。手を伸ばす事すら……」 言いながらおれは少しずつ自体を把握していき、恐ろしくなった。これからの長い人生、おれはたった一人で生きなくてはいけない。誰の手も取らず、誰にも手を取ってもらえず―― 「もう、あそこへ行くつもりはないのか?」 誰かは立ち上がる。おれは恐怖に包まれた。誰か――恐らく、おれの知りうる唯一の存在である誰かが何処かへ行ってしまおうとしている。 「ああ。もう、行く必要はなくなった。お前がおれを止めてくれないからな」 誰かはおれに手を差し出した。おれの顔の前で、その掌はとても大きなものに見えた。 「――そうか。腕がないんだったな」 誰かはおれの肩を支える。おれは一瞬誰かに体の重心を預け、立ち上がった。 「お前も一緒に行くのか?」 おれは少し不思議そうに言った。 「ああ」 当然だ、といわんばかりの口調で誰かは答える。おれは予期した通りの返事に軽く頷き、歩を進めた。 「お前がおれの存在に救いを求めているように、おれもおまえの存在に救いを求めているんだ」 誰かは心の中の感情を具現化させていくように、ゆっくりと言った。 「――きっと、おれの腕が生えたらおれはあそこへ行くことを望むだろう」 「――きっと、お前があそこへ行く事を望み始めたら腕が生まれるのだろう」 「そしてお前はおれを止めようとする」 「そしてお前はその腕をおれに向けながらあそこへ行こうとする」 おれは誰かになったような、存在しているのかいないのか、確立したようなしていないような意識で「異なった」空間、そして二つの、かつておれの腕であったものから遠ざかって行った。 |