もげる (1)
「行くんだ! 行かせてくれ!」 「行くな! 行っちゃ駄目なんだ!」 二人の人間。おれと誰か。行きたいおれ。行かせたくない誰か。 場所、及び二人の状況の説明は極めて難しい。おれと誰かの存在だけは明らかなのだが、その他についてはてんであやふやで、説明のしようもない。 否、おれと誰かについても明確な情報はない。だが、そんな情報に関して気を回してなどいられない。おれの心は一つの事に支配されている。そして、誰かの心も。 この空間。 特定のしようもない、視覚といわず、聴覚といわずあらゆる感覚が疎外された全く未知であり概知でもある空間。 そして、もう一つ。 定義付けの不可能な、この空間とは「異なった」空間。 おれは、あそこへ行きたいのだ。どうしても。 此処にいるのが厭な訳ではない。ただ、どうしてもおれにはあそこへ行かなくてはいけない理由があるのだ。さもなくば、こんなにも胸かきむしられそうな程の欲望の形をとって「あそこへ行きたい」と感じる訳がない。あそこで待っているのが何であろうと、おれはそれを受け入れる自信がある。死であろうと、ゴミにまみれた死体であろうと、肉を焼きただらす薬品であろうと。 おれはそこへ行く為に、今、此処にこうして存在するのだ。 「行かせてくれ!」 おれが叫び、足を踏み出す。 「行くんじゃない!」 手を引っ張られて転ぶ。そのままずるずる引っ張られる。 力ずくでおれと止めようとする誰かは、恐らくおれと同じような熱い塊につき動かされておれを止め立てしようとしているのだろう。その衝動は判らないでもない。おれ自身もそうだからだ。わけもなく、ただ「そうしたい」と感じてやまない――だが、そんな感情を理解し、納得できたとて今のおれを変える要因となろう筈もない。おれはおれの中から「行きたい」と思い、それは外部からの刺激で変わるようなものではないからだ。 「どうして行かせてくれないんだ!」 誰かを突き飛ばす。倒れた誰かを飛び越え、ついに―― 「どうして行こうとするんだ!」 ――駄目だっ! 足をつかまれ、おれは転ぶ。 空間の知覚すらできないのだから当然時間が判る筈もない。 ずっと二人で揉み合ってるような気もするし、ついさっきこの誰かと出会ったような気もする。 駄目だ。この世界の識別をしようなんてバカな事を考えていると誰かにつれられておれはだんだんあそこから遠ざかってしまう。 行きたい、と強く念じる心があって初めて体が努力を始める。冷静な判断力でこの場の説明をしようなどと思っては相手の思う壷だ。 「放せ!」 手をつかまれたまま、おれは無理矢理進む。 「行くな!」 あくまで抵抗して手を引っ張る誰か。手が引き千切れそうに痛む。 だが、こんな肉体の痛みなどおれにはどうでもよいのだ。望み叶わず苛立ちの頂点に達した精神の苦しみに比べれば。 おれと誰かの力は全くの五分五分だ。どうして、と不思議に思える程互角だ。せめてもう少しおれに力があれば――せめて、もう少し俺の念じる心が強ければ……。 体一杯で、この肉体はちきれんばかりで願う。その願いの大きさに体はつき動かされる。誰かがそれを押し止どめる。おれの願いは大きくなる。誰かの心も大きくなる。 広い空間での二人の小さな揉み合いは大きな心の戦いを伴っている。 おれは「どうしても」あそこへ行きたい。 誰かも「どうしても」おれをあそこへ行かせたくない。 手を引っ張る。引っ張り返す。投げる。転ぶ。這っていく。足をつかむ。蹴る。走る。タックルされる。二人して転がる。 殴る。叫ぶ。叫び返す。にらみ合う。足を引っ掛ける。肘鉄を食らわす。ひっぱたく。ひっかく。膝蹴りをする。関節技をかける。 首を締める。頭を締め付ける。腹を殴る。足からすくう。投げる。 朦朧とした頭で俺は誰かが膝をついているのを見た。――今だ。 「行くな、って言ってるだろっ!」 ――くそっ! 羽交い締めにされた! 体の重心が後ろに下がってしまい、前へと進みたいのに、誰かの望み通りにどんどん後ろへ行ってしまう。自分の思いのままに脱臼するなどという技を持たないおれは大人しくあそこから遠ざかっていく……遠ざかっていく……。 ええいっ! なんてふがいのない体だ! 誰かの荒い鼻息が聞こえる。少し安堵のこもったその鼻息に、俺の苛立ちは体の中に凝集された。 「バカヤロー! どうして俺があそこへ行くのをお前は止めるんだっ!!」 ――”バキャッ!” ……え? 「……え?」 |