失せもの (4)

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 いつも目の端に留めるに過ぎない風景に、涼は足を止めた。
 浩一は涼にかけたいと思いつつ、涼に逃げられてしまう事に怯え、単なるナンパと思われる事を嫌い、そのまま歌い続けた。
 愛の歌、恋の歌、社会の歌、親の歌、友人の歌――
 ギター一本で歌い続ける浩一の一生懸命な姿に涼は凍り付いていた自分の心の一部がゆっくりと溶けいくような気がした。
 いつもなら一時間歌って五分程休みをとるのに、その日、浩一は二時間ぶっつづけて歌い続けた。
 休憩に入ろうとした時に涼が泣き出して、やめるにやめられなくなったのだ。
 自分の歌に感動して泣き出した訳ではない、と言う事は浩一は判っていた。
 ずっと、涼は泣いていた。目を真っ赤にして、いつまでいつまでも泣いていた。無表情に涙を流していた。
 そんな涼をいぶかしげに眺める人もいたが涼の無表情は人を拒否していて、誰も涼に声を掛けられなかった。
 涼が泣きやみ、暫くして浩一はその日の演奏を終えた。
 留まっていた僅かな人々が散っていく。浩一にお金を渡す人もいる。
 涼はそのまま、早足で去る。
 浩一は慌てて涼の後ろをついていく。声は掛けない。
 マンションの涼の部屋の前まで来た時、浩一が言った。
「俺、宿無しなんだ」
 媚びるような様子もなく、実は止まるアテがない訳でもなく、ただ涼が放っておけなくてついて来た浩一のその言葉は涼の心の琴線に触れたようだった。
「それじゃあ、演奏代、と言うことで」
 涼は無表情に答えて扉を開けた。
 そうするのが自然な仲のように、二人は一緒に眠った。
 意を決して訊ねた浩一の問いに、涼は不思議そうな顔をした。
 泣いていた自覚がない、というのである。
 母を十日前に亡くして、その時も悲しいと思う事もなく、泣きもしなかったらしい。
 淡々と語る涼を前に、浩一は引き裂かれるような哀しさを感じた。涼の持ち得なかった哀しみをも自分のものにしてしまった哀しみだった。
 浩一はそれを歌にし、涼のために歌った。
 そのうち、浩一はアルバイトをやめ、歌で生計をたてる為に奔走し始めた。
 だが、結局芽はでず、涼の給料に頼る生活が続いた。
 浩一はそれも歌にした。
 子供ができて、二人は籍を共にした。
 涼が働かなくては生活できない状態で、育児は浩一がすることとなった。
 浩一が歌わなくなったのはその頃からだった。
 歌以外に人に意志を伝える事のできない臆病な浩一は、歌で涼を傷つける事を恐れて歌を作る事もやめていった。
 浩一は何も言わなかった。
 涼は何も問わなかった。
 信吾はすくすくと育っていった。
 そんなある日、涼は帰宅した時、血塗れの信吾を抱いて茫然と座る浩一を見た。


 俺は涼が好きで愛しているから涼に愛して欲しいと思っているのに俺が涼にしたい事と涼が俺にして欲しいと思っている事が違っていて、それ以前に涼が俺に何を望んでいるのか判らなくてそれでも何かせずにはいられなくてでも俺が何かすれば涼が傷付くんじゃないかと思ってしまう涼は俺を好いてくれるのか自信がなくなってしまう涼にとって俺はどうでもいい人間なんじゃないかと思ってしまう――こんなに好きなのに好きだと言う事もできない俺はお前の負担になりたくないお前を見ているのが辛いでもお前がいなくても辛いお前が何を考えているのか判らない判りたくない判るのが怖いお前のために歌を作るのが怖い
 叫び続ける浩一とは別の一歳の涼香を抱いた浩一が宏嗣の元を訪れる。
 外の平穏な浩一は宏嗣を気遣い、涼香の能力に気付き、会社で働く事を申し出る。
 内の荒ぶる浩一は涼香を抱き涼香に反抗される事を恐れて涼香を薬漬けにしていく。
 もう、歌は作れなかった。
 ギターのコードすら忘れてしまっていた。
 歌う事を忘れてしまったら生きてはいけない――そう言った浩一は死んでいた。
 ただ、激しく涼を求めた気持ちの塊が生きていた。
 人の気持ちを汲み取ってしまう涼香がそんな浩一の想いと痛みに気付かない筈がなかった。
 さらに会社で読みたくもない人の気持ちを読まなくてはいけない。
 逃げたくて、逃げられなかった。
 此処以外に自分の居場所があるとも思えなかった。
 或いは――涼ならば。
 求める事はなくとも居る事は肯定してもらえるかもしれない。
 父を引き戻してもらえるかもしれない。
「浩一は……もう、死んでしまったのでしょ?」
 母の顔を見て、満足げに笑う一歳の信吾に、涼は淋しげに話しかける。
 信吾は聞こえているのかいないのか、母の胸で笑っている。幸せそうに笑っている。
「もう……やり直せないんでしょ?」
 お母さん……お父さんのために泣いてあげて。お父さんのために、お父さんに「愛している」と言ってあげて。それだけでお父さんは救われるから。
 いつの間にか抱いていた赤ん坊はいなくなって、自我を失った浩一と浩一に抱かれて涼をみつめている十ぐらいに見える涼香が涼の二、三メートル前にいた。
「浩一は……もう、いないんでしょ?
 いま、ずっと、ずっと――ずっと私を求めて、私に救いを求め続けていたのは……信吾なんでしょ?」
 目の淵に涙が溜まって視界がゆがむ。瞬きひとつで大粒の涙がこぼれてしまう事は容易に想像がつく程である。だが、涼はそのまま信吾を見ていた。
 浩一が消える。自分を支えている事ができず、涼香はその場に座り込む。
 お母さん……私を消して。
 涼香は泣いている。
 私を消して。殺してくれてもいい。いなくして。私を消して。消して。
「浩一を亡くした上に、お前までなくしてしまえ、って言うの?」
 辛いの。生きているのが辛いの。私では駄目なの。私ではお父さんは救えないの。どんなにお母さんの身代わりになろうとしても、お父さんは判っている。でも、私の為に、自分の為に、気付かないフリをして、それが本当と思い込みたくて、本当だと思った時もあった。でも、いつまでもお父さんはお母さんを求め続けて、本当に手に入れられないからこそ求め続けて、でも本当にお母さんに会いに行くには勇気がなくて、お母さんに、もし、他の大切な人がいたら……いたら……
 もう、死んでしまうと思った。
「待ってた訳じゃない。七年、連絡がなくて、死亡宣告もしてもらった。もし、他の人がいたら――」
 ふ、っと涼は微笑んだ。
 その微笑みの頬の動きで涙がこぼれる。
 少しうつむいて、目を閉じる。ぽとぽとと涙が落ちていく。
 その涙を追い越すように、涼は歩き出す。
 十五歳の信吾が座って涼を見ている。無表情に、でも期待を捨てきれない様子で涼を待っている。
 四十五歳の浩一が座って涼を見ている。淋しそうに、嬉しそうに、諦めたように、それでも右手を差し出している。
「そんな人、いる訳ない。こんな人、いる訳ない」
 涼は、信吾を抱き上げる。乳飲み子は泣きやみ、母の顔を見つめる。
 涼は、浩一を抱きしめる。音を作る青年は瞳を閉じ、妻を抱きしめ返す。
「――やり直そう」
 何年も忘れていたぬくもりを感じ乍ら、涼は言った。
 ううん、お母さん。私は幸せだから、これでいいの。だから――このまま、私を消してしまって。捨てておくだけで死んでいってしまうから。幸せな気持ちだから。お父さんに申し訳ないぐらいだから。
「最初から始めよう」
 駄目だよ、お母さん。嘘ついても、私判るんだから。あの時から、私、人の心を読めるようになったんだから。いまはお母さんこんな気持ちでも、そのうち私を重荷に思う。こんな普通じゃない半ば狂った子を持った事を、引き取った事を後悔するようになる。
「私は、本当に、そう思ってる? 全部、洗いざらい私の心を読んでもいい。そんな事を考えてる?」
 人を――自分以外の人を「狂ってる」なんて言っていいものなの? 自分こそが狂ってるかもしれないのに。
 変わらない平穏が私だと言うなら、変わっていく平穏も私で――座標を失った私が私であるように、座標の存在すら知らない私も私だ。
 深い、深い闇は全てのものを呑み込んで空っぽのままでまだ何かを呑み込もうとしている。
 幸せになりたい人は幸せがなになのか判っていなければ――それを私が教えましょう。
「お父さんの……歌だ……」
 ようやく、それだけ言って、信吾は泣き続けた。
 生きてるんだ。お母さんに会いたいが為に僕が殺したお父さんは、それでもお母さんの心の中で生き続けてるんだ。
「それでも浩一はもういない。もう、いなくて、やり直す事もできなくて、あの人に、私がどんなに救われたかを伝える事はできないけれど……信吾はいるもの」
「お父さんもいるよ。お母さんの中に」
「――信吾の中に」
 親子は、思念波を感じなくなって不思議に思ってやってきた宏嗣が声をかけるまで、長い――長い間、抱き合っていた。


 一ヶ月もすると薬物の影響も薄れ、信吾は一人で出歩けるぐらい回復した。
 行動範囲が増すにつれ、信吾の精神感応力も弱くはなっていった。切り取られた性器は二度と甦らず、二次性徴を迎える事はない、と言われた。
 夏の日光は遮るものなどないない橋の上にじりじりと焼き付ける。
 きらきらと光る川面にさらにひらりと魚の影が走る。
「音楽を――やろうと思うんだ」
 会社に顔を出すのはまずかろう、という事で宏嗣は信吾に会社近くの喫茶店まで行こう、と申し出た。
「まだ、お父さんが僕の中から消えない。……人は、自己に取り込んだものは噛み砕いてでも、そのままででも、外に出さなきゃ死んでしまうんだ、って。脳がそう言う風にできてる、って。――世に出るつもりはあんまりないけど……音楽はやってみたい」
 見かけは十ぐらいの――でも、言う事は大人以上の――信吾を、宏嗣は嬉しそうに見ていた。
「いろいろ――すまなかった」
「そんな――日野さん、謝るのは僕の方だよ。謝る、じゃなくて感謝してる、って言った方が正しいかな。お母さんを連れてきてくれたもの」
「お母さんは、元気かい?」
「うん。相変わらず」
 少年は、嬉しそうだった。
 つられたように、宏嗣も微笑み――真顔になる。
「? どうしたの?」
「いや。……ちょっと、突っ込んだ事、訊いてもいいかい?」
「? うん……」
「どうやって、涼さんは、信吾君を説得できたんだい? いや、その、僕が訊くべきような事ではないと思うんだけど」
 言いにくそうにする宏嗣の、嫉妬心らしきもの――十五年つきあって来た自分が全くの無力であったのに、ぽっと出てきた涼が信吾を救えた、という事実に対する感情――を信吾は感じ、納得したように頷いた。
「僕は、あまりにもお父さんと一緒にいて、お父さんの気持ちを読みすぎて――お父さんになってたから。しかも、お母さんを思いすぎて錯乱しかけていたお父さんだったから――涼にしか救えなかった」
 突然自分の母の名を呼び捨てにした信吾に、宏嗣はギョッとした。
 そんな宏嗣の動きに納得したように、信吾は軽く微笑む。
「多分、僕のテレパシー能力は、性器を切り取られたせいで身について、薬物で増強されたんだと思う。だから、お父さんが全ての原因だとは思うけど――僕は、涼が好きだ。これが、浩一の気持ちか、信吾の気持ちかもう判らない。そういう意味で、僕が男でなくなって良かったと思う。それで――相手が涼で良かったと思う」
「……涼さんは、信吾君の気持ちを……?」
「言ってないし、気づいてないとも思う。でも、気づいても――受け入れてくれる。そういう人だから……」
「――」
 茫然とする宏嗣に、信吾は少し上目づかいに申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん。変な話して」
「あ、いや……」
「日野さんぐらいにしか話できなくて」
「ん……ちょっと、面食らったけど」
「――僕、多分、今、すごく幸せで、誰かれなしに話したい気分だったんだ」
「――」
「お父さんが言っていた」
「?」
「幸せになりたい人は幸せがなになのか判っていなければ、って」
 人は幸せになれるという事。幸せな気持ちを得ることができるという事。
 
 
 夏の陽射しはいつもと変わらぬ顔で風景を照らし続けている。
 
                                                      (おしまい)
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