失せもの (3)

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 「浩一は――いつも、私が忘れてしまって、もともとそんなもの持ってない、って思っていた感情を歌って、私を救おうとしてくれた」
 涼香に抱きつく浩一に、浩一に抱かれている涼香に近づいて、何かをしたいと思い乍ら、何をしたいのか具体的に思いつかない涼は茫然とその場に佇んで、言葉を口にした。
「私は――救われたんだと思う。それまで、感情のはけ口がなくて、自分で感情なんて持ってない、って思う程だった。自分の言う事を――私の気持ちを、聞いてくれる人がいるなんて、思わなかった。私の気持ちを受け止めてくれる人がいるなんて思わなかった。人を――人を好きになってもいい、って初めて知った」
 浩一は何かを言っている。
 涼を呼び、涼香を抱いている。
 涼香は抵抗もせず、空を見ている。
「浩一がいなければ――あのまま、生きていたと思う。浩一がいなくなったから、私は昔の私に戻ってしまった。辛くはなかった。変わらない平穏が私だったから。変わってしまう平穏も私だから。浩一は、私を世間体に縛られてる、って言ってたけど――それは違う。私が世間体を気にする小心者なら、もっと人と付き合おうとしたと思う。人に嫌われてることを恐れて、人と接しようと動いたと思う。そんな事、私は気にしていない。ただ、死んでいないから生きてるだけだわ。死んでしまった時に悔いが残らないように――死んでから、悔やむなんて、どうすればいいのか自分でも分からないけれど――自分に課せられた役割を果たそうとしているだけだから。
 ただ――浩一といた三年間は、信吾といた一年間と少しは、人間の感情もいいものだと思えた」
 浩一は何かを言っている。しかし、何を言っているのかは涼には判らなかった。
 何を言っているのか聴き取ろうと努力しているのだが、どこかよその国の言葉を聞いているかのように、意味を汲み取ることができない。
 何故、浩一は自分ではなく信吾を抱きしめているのか判らなかった。
 恐らく、何故そうなるのか考えれば良いのだろう、という事に薄々感づいてはいる。だが、そのまま思考を押し進め、浩一や信吾や自分の事について考えると、何か気付いてはいけない事に気付きそうだった。
 痛みがなければ怪我には気付かない。怪我に気付かなければ治しようもない。だから人は痛みを知っている――一昔以上前に浩一が作った歌のフレーズが涼の頭の中を回り始める。
 浩一が歌わなくなったのはいつからだろう。
 浩一の歌が変わり始めたのはいつからだろう。
「私がいなければ――私がいない方が、浩一は幸せだった?」
 ううん、お母さん。お母さんと離れてから、お父さんはちっとも幸せじゃなかったよ。幸せじゃなかったから、お母さんを想う気持ちが強すぎたから、私を抱いたんだから。
 私がお父さんに逆らう事を恐れたから、私が人に頼ってしか生きていけないような体にしたんだから。
 我に返ってお母さんがいない事に気付くのが怖くてそのまま錯乱し続けたんだから。
 ……そして、私も自分が何者なのか知るのが怖くて、そのままで何もかも放っておいた。
 ――でも、苦しかった。辛くて、少しも幸せじゃなかった。
「どうして……いなくなったの? どうして帰って来なかったの? どうして今更会おうと思ったの?」
 自分自身、思いもよらなかった問いかけの言葉を涼は口にした。あまりにも意外で、自分で脚本に書かれているものを読んでいるような感じすら覚えた。
 だが、そんな違和感の中で、自分はそう問い掛ける事で出てこない答えに苦しむ事が判っていたから「何故」という思いを排除して、最初からそんなものはない、と思い込もうとしていたのかもしれない、と理解した。
 幸せだけど、辛かったから。
 やめろ!
 浩一が初めて気付いたかのように、涼を見た。泣きはらしたような赤い、充血した目がまっすぐに涼を見る。
 駄目、お父さん。お母さんを責めないで。お母さんを愛しているのなら、お母さんを傷つけないで!
 浩一は信吾をかなぐり捨てる。信吾は人形のように地面に叩きつけられる。信吾は泣き声ともつかない叫び声をあげる。
「信吾!」
 呪縛が解かれたかのように、涼は駆け出した。
 血にまみれた一歳の乳飲み子を抱える。
 涼……涼……そいつは誰だ。どうして俺じゃなくて、そんな子供を抱くんだ。
 俺はそんなつもりはなかった。その子は俺達の大切な子供だ。俺は錯乱してたんだ。
 涼、そんな死にそうな子供は放っておいて、俺を見てくれ。俺だけを見てくれ。二人だけで生きよう。
 俺はお前が好きだ。だからお前に好かれたい。だから俺はお前を束縛しない。こんな、将来の可能性のないしがない男と一緒にいてくれるだけで充分だ。
 そのまま放っておけば、そんな子供、死んでしまう。放っておけばいいんだ。そして二人で暮らそう。もう、お前以外に何もいらない。お前以外何も欲しくない。俺の命も魂も全部お前にやるから。
 お前が好きで、本当に好きで、お前の望む事を全部叶えてやりたいのに、俺はこんなにもちっぽけな人間で、できることと言えば歌を作って歌うぐらいだ。それでもお前を幸せにしてやれたらいいのに、何故だ――お前を苦しめるような歌しか作れない。自分を哀れむような歌しか作れない。お前を縛るような歌しか歌えない。俺はお前を幸せにしたいのに。お前を幸せにできない俺には、何の価値もないというのに。
 矛盾した叫びが複数の波となって一気に涼に向かってやって来る。
 それを涼は受け止めた。逃げはしなかった。
 まっすぐと浩一を見つめている涼に、浩一は驚きの表情を向けた。
「浩一が恐れている程、私は傷付きやすい人間じゃない。――違うな。傷付かない訳じゃない。傷を封印する術を知っている。自己完結の方法を知っている。知らなければ、生きていけなかったから。
 浩一がやってたような、傷をさらして治してしまうような強さは持っていなかったけれど、浩一が思うほどには弱くない。なのに――……。
 なのに、あなたの強い感受性は封印した傷を見つけ出してしまって、それを指摘する事もできずに苦しんできたのね。
 私は……知らなかった。
 いつもいつも……いつもいつも……」
 いつも、終わってから、気づくしかない。

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