失せもの (2)
涼(すず)が十歳の時、両親は交通事故に遭った。父親は死亡。母親は体に障害を持つようになり、殆ど寝たきりの生活を強いられるようになった。 そこで明るさを失わない程、涼は起き上がりこぼし的な気性は持っていなかった。 人の世話を受け、人の負担となる事を知る。 とにかく早く独立したくて、中学を卒業するとすぐに就職し、夜間学校、通信大学で学歴を得た。 その途中、二十二歳の時に母が亡くなった。 負担がなくなった、と気が楽になった。自分の存在価値がなくなったような気もした。 そんな時、涼は浩一と出会った。 浩一は毎日街頭でギター一本で歌を歌っていた。幾人かの友人と冷やかしの客の視線を浴びながら、歌を歌っていた。 そんな人がいることを、涼は知っていた。知ってはいたが、敢えて足を止めて再認識する程のことではなかった。ただ、殆ど毎日聞くその歌声に、涼は変わらぬ人の風景を見たような気がした。 母のいない部屋に、誰も待っていない部屋に戻るのが辛くて、涼は浩一の前に立ち止まった。 その瞬間、浩一と涼の視線が会った。 浩一はその時、自分が恋に落ちた事に気づいたらしい。 七〇七号室の呼び鈴を鳴らす。 応答はない。 一瞬、どうしたものか、と涼は悩んだが、思いついたようにドアノブを回すと抵抗もなくくるりと回り、扉が開いた。 一週間あまり、一人で生活できない子供が一人で残されて、果たして無事で生きているのか、という思いがよぎった。 玄関に入る。右側にお手洗いへ続くらしきドア。 「萌田――涼です」 お母さん。 涼。 ――涼は自分を呼ぶ声を聞いた。 正確には空気を振動させ、耳の鼓膜で感知するような”声”ではなかった。 だが、涼はその事にはこだわらず、靴を脱ぎ、正面のドアを開けた。 ほんの二、三メートルほどの廊下。 左側は和室、右は台所。正面にLDらしいフローリングの部屋がある。 すべての部屋に明かりがついており、涼はその事を不思議とも思わずにまっすぐ進んだ。 喜んでいる。信吾が、望みに望んでいた母との解逅に喜んでいる。 無防備な歓喜が頭の中になだれ込むのを感じ乍ら、涼は浩一のことを思い出していた。 信吾は窓際のソファーに座っていた。 到底、十五の少年には見えなかった。長い髪を三つ編にし、洗いざらしのシャツにデニムのロングスカートをはいてそこにいるのはどうみても十になるかならないかの少女だった。 お母さん。お母さん。やっと……やっと、会えた。 お前に会うために一生懸命掃除したんだ。日野も手伝ってくれたけど、俺も一生懸命やったんだぜ。涼、お前と暮らそうと思って。 「隣に座っても、いい?」 涼はそう言った。 うん。……お母さん。 「何?」 涼は信吾を見た。その目は見えているのかいないのか、空を見つめている。顔は呆けて何の表情も持っていない。 お母さん。お母さん。お母さん。 涼。涼、涼。やっと会えた。一緒に暮らそう。お前は俺のものだ。もう何処へも行かないでくれ。俺だけを見てくれ。俺の為だけに生きてくれ。二人きりだ。二人きりで永遠に一緒にいよう。お前のために音を捨ててもいい。一日中お前を抱いていたい。お前のために生きていく。朝起きた時も夜眠る時も眠っている時も一緒にいよう。二人で時を刻んでいこう。死ぬまで、いや、死んでも。死んでも俺はお前のために生き続ける。 「――信吾は?」 五感以外の感覚で涼は信吾を見ていた。亡くなった筈の浩一を見ていた。 いつしか信吾はいなくなり、泣き喜び涼を抱きしめる浩一だけが残った。 俺はお前を傷つけた。なのにいつもいつもお前は平気な顔をしてやり過ごしてきた。俺はちっぽけな存在でお前を幸せにしてやる事もできない。こんなにお前を想っているのにうまくお前に伝える事ができずにお前はいつも俺を見ずに遠くを見ている。俺はただお前といる事を望んでいるのにお前はどこかへ行ってしまう。そして見知らぬ子供を連れてきた。かわいい子だ。だけど何故お前はその子に微笑むんだ。それは小さいが男なんだろ。どうして大切そうに抱くんだ。子供の世話なら俺がする。だから涼は俺のためだけに生きてくれ。 「浩一は……ひとつもそんな事言わなかった。いつも、何か言いたげに私を見ているだけだった。私は何も問わなかった」 涼の母は涼に侘びた。世話になった涼の叔母にも侘びた。そして、涼に感謝することを強要させた。礼儀正しい良い子であることを強要させた。不正直である形に育てている事に気付かず、哀願することで娘を躾けた。 好きなものを好きと言えなかった。思う事すら辛かった。 嫌いのものを嫌いと言えなかった。思う事すらいけないと思っていた。 何も言えないお前のためにも俺は歌った。なのに誰も俺に気付かず、俺のためにお前は働き続けた。 「浩一のためじゃない。……自分のため、っていう訳でもないけど……変わらない平穏が私だから」 でも俺には堪えられなかった。俺の知らないところでお前は生きている。俺の事なんか忘れたみたいに。俺の事なんか忘れて生きてる。 思いもよらない言葉に涼は応えられなかった。 俺はお前のために何もかも捨てても構わないのに、お前はお前のままで淡々と生きているふりをしている。傷付いても素知らぬ顔で俺には笑顔を向ける。 お父さん。お母さんを責めないで。お母さんはお父さんが思っているような人じゃない。お母さんは本当にお父さんを大切に想っているんだから。お父さんとお母さんが暮らしていくために、お母さんが働かなくちゃいけなかったんだから。 いつの間にか信吾が涼と浩一の間に立っていた。しっかりした表情で、父と相対している。涼には信吾の顔は見えない。だが、両手を広げ、浩一から涼を守るようにして立っている事は判った。 涼、こいつは誰だ。こいつが来てからだ。こいつが来てからおかしくなったんだ。お前が外へ出て行く事は辛かったけれど、帰って来てくれればお前は俺のものだった。一緒にご飯を食べて一緒に片づけをして、一緒にテレビを見て時には歌を唄って、お前を抱いて眠りにつけたのに、こいつが来てから、二人きりでなくなった。俺は幸せでなくなった。なのにお前は幸せそうだった。 「こいつ、って……信吾は浩一と私の子供よ。だって、浩一、かわいがってたじゃない。浩一が育てる、って自分で言ってたじゃない」 涼……もう一度、二人だけでやり直そう。二人きりで暮らそう。音を捨ててもいい。普通の人のふりをして、会社勤めをしてもいい。二人で生きよう。 そう言って、浩一は涼香を抱きしめた。 もがきようもない程強い力で抱きしめられた小さな涼香は首だけ回して母を見た。 涼は無表情だった。 涼香はそんな涼に泣き乍ら微笑みかけた。 浩一はまだ何か言っていた。だが、その声は意味のある言葉の形をとって涼に届くことはなかった。 人の心を歌おうとする浩一は人の気持ちに敏感で、優しくて小心者なくせに正直者だった。 両親が離婚し、妹と別れ、十三の時から父親と暮らしはじめた。 父は再婚する。新しい母は浩一となじめない。浩一も母となじめない。 孤独の中で浩一の心を救ってくれたのは音楽だった。 高校を卒業すると同時に浩一は家を出た。涼との結婚を報告しに行くまでの十年間、便り一つ親へよこすことはしなかった。 デモテープをもって業界を回る。コンテストへも出る。 芽は出ない。 男友達、女友達の家を渡り歩き、アルバイトで生計を立て、夜は毎日街頭で歌う。 いつも歌を聴いてくれる常連さんもできた。「頑張れ」と声を掛けてくれる人もいた。 そんな喜びも歌にした。 そんなある日、風景の一端を成していた会社帰りのOLが足を止め、浩一を見た。 その瞳の空っぽさと奥深さに、浩一は今まで会った事のない人の有様を見た。 言葉で表せない重荷を抱えて、その重荷に気付かなくなってしまった人のように見えた。 そんな人を愛しいと思った。 その夜、浩一は涼のために歌い、それ以降浩一が友人の家に泊めてもらうことはなくなった。 |