失せもの (1)

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 お母さん。お母さん……お父さんがいない……お父さんが……死んでしまった。
 涼(すず)。涼……愛してる……俺はお前を愛している……お前が欲しい。お前を抱いて二人だけで生きていけるなら他には何もいらない。
 お母さん……お父さんを助けて。私では……私は……何もできない。私ではお母さんの代わりになれない。
 お前の髪も唇も指も乳房も言葉も影も夢も過去も未来もすべて俺のもので俺のすべてがお前のものだなのにお前は何故ここにいないこんなに愛しているのに
 お母さん……ずっと……ずっと呼んでいるのに。


 湿った空気が体に纏わりつく。空気は雨の匂いを抱き、まだ雨粒の一つも落ちていない事が萌田涼(もえだすず)には不思議に思えた。橋から数十メートル下を流れる小さな川はゆったり流れており、時折魚がひらりと舞い、丸い波紋を残していく。まだ日が沈む時間ではないがどんよりと曇った空は太陽の光をさえぎり、行き交う車はヘッドライトで道を灯し始めていた。
 橋を渡り、二つ目の角を左へ曲がる。二軒目に「園川商事」と書かれた門を見つけた。門から入って一メートル程の所にある受付で名を告げ、日野課長への約束があると告げる。
 言われたとおり玄関のロビーで待っていると、それらしき人が涼にお辞儀をしながらやって来た。
 年のころは四十代前半、いくつか涼より年上――涼の夫であった釜谷浩一と中学校からの同級生であった、と言うことからすると四十五か六であろう。精悍な顔付きであるが、疲労の色が濃く出ている。
「営業の日野です。本日は遠いところをわざわざ申し訳ございません」
「バイオテック株式会社広報部の萌田です」
 涼は深くお辞儀をする。日野宏嗣(ひろつぐ)は社交辞令を完全に身につけているらしい涼の態度に一瞬戸惑いを覚えはしたものの、ひとまず名刺交換を行う。
「ひまず応接室へ――」
「すみません、それよりも、暗くなる前に釜谷の墓参りをさせて頂きたいのですが……」
「あ……はい。すみません。気がつきませんで」
「いえ。ぶしつけな事を申し上げまして、申し訳ございません」
「車の方をこちらに回してきますので、少々お待ち頂けますか」
「はい」
 宏嗣が再び戻ってくるまでのほんの三分の間、涼はこの十年殆ど思い出しもしなかった、浩一と、彼との間にもうけた子供の事を考えていた。
 宏嗣から、浩一が亡くなったという知らせを受けたのは三日前だった。その翌日に涼から宏嗣へ電話を掛け、浩一が一週間も前に亡くなっていた事、宏嗣が以前浩一から妻であり、涼香(すずか)の母である涼の事を思い出して手紙を書いた事を聞いた。
 仕事中だった事もあり、涼はあまり詳しく浩一の話を宏嗣から聞かなかったが、十三年前に浩一が子供と一緒に涼の前から姿を消してから宏嗣に世話になっていた事、園川商事に勤めている事などをきいた。
 その日暮らしの風来坊、あるのかないのか判らない才能を信じて苦悩する浩一しか知らなかった涼にとって「園川商事に勤めている」という事実は信じがたかった。育児と芽のでない音楽活動。そして――……。
「お待たせしました」
 宏嗣が声を掛けてくる。ぼんやりしていた自分に気づき、少しはにかんだ様子で涼は「はい」と返事した。
 スーツを着こなし、そこに佇む涼を見て、宏嗣はどうしても彼女が浩一の妻であり、涼香の母であるようには見えなかった。
 車の中の二十分。最初の五分は沈黙に始まり、耐えきれない空気にぎこちなく会社の話などしていた。
 宏嗣は今やその存在を持て余している涼香について説明する必要がある事が判っていながら、言い出せないでいる。
 涼は浩一達について訊かなくてはいけない事があり、自分も説明した方がよいと思いつつ、うまく切り出せずにいる。
「信吾はどうしてますか?」
 幾度目かの沈黙の後、涼は意を決して宏嗣に訊ねた。
 もう十五歳になっている筈だ。当然、私の事など覚えている筈もない。――最後に病院で見た一歳児の痛ましい顔が脳裏に浮かぶ。
「……信吾?」
 誰ですか、それは、という含みを込めて宏嗣は言う。
「……子供です。釜谷と私の……。いないんですか?」
「――釜谷の娘はいましたけど……涼香ちゃんといって……その……」
「――誰かと子供をもうけたんですか?」
「いえ……私の所に来たときに連れてきた子供です。確かに、萌田さんとの間の子供だ、と言ってたような気がするんですが……」
 噛み合わない会話に、二人は暫く黙った。
「釜谷は……まともでしたか?」
 おろおろする宏嗣に対し、涼は冷静な口調で言った。その科白と落ち着いた声の様子に宏嗣は驚き、思わずルームミラーで後部座席の涼を見た。
 視線が合う。――四十には見えない女の、表情のない目。表情を隠したのか、それすらも判らない目。
「――時々、……発作のように暴れる時はありました」
「何で、亡くなったんですか?」
 本来なら一番最初に訊いてもおかしくない問いを、ようやく発する。
「心筋梗塞です。どうすることもなく、あっと言う間に息を引き取ってしまいました」
「……釜谷は、そちらの会社で何の仕事をしていたんですか?」
 涼の言葉に宏嗣は答えられなかった。
「――日野さんが今言われた涼香という子供は……信吾のことだと思います」
「――」
「あの人の狂気が何によるものか、私には判りません。あの人は……信吾が一つの時、信吾の性器を切り落として――信吾を入院中に誘拐して失踪しました」
 ルームミラーの目は、哀しみも怒りも持っていなかった。ただ、それは事実だと念を押すような強い意志がそこにあった。
「それ以降、私は二人に会った事がありません。行方も知りませんでした」
「失礼ですが、今ご結婚は?」
「一人です。ずっと」
「――」
 涼は目を伏せる。
 車は市の共同墓地へ着いた。
「俺の家の墓の隅で我慢してもらってるんです。できれば遺骨をお引き取り願えますか? 釜谷もずっと……ずっと涼さん、あ、いえ、萌田さんに会いたがっていましたし」
「――墓地の用意ができてからで構いませんか?」
「はい。大丈夫です」
「……すみません。有難うございます」
 ぼとり、と空に留まる事に耐え切れなくなった雨粒が落ちる。ぼとり、ぼとりと大粒の雨は数を増していく。
 涼は鞄の中から折り畳みの傘を出す。宏嗣は車の中から傘を出す。
 花も線香もなく、涼は墓の前で手を合わせた。宏嗣はそんな涼を見、厚い雲に覆われた共同墓地の広い空を見た。
 十秒程で涼は立ち上がる。その表情に哀しみはない。
「信吾に――会わせて頂けるんですか?」
 落ち着いた表情で涼は言う。宏嗣は沈黙のまま小さく頷いた。
「……その前に、釜谷と涼香さんの事について説明させて頂けますか? どこか落ち着いたところで……」
「――はい」
 激しく降る雨の中を車が走る。五分ほど走ったところで駐車場のある喫茶店に入る。突然の大雨で店内は混んでいたが幸いにも奥の方の窓際の席につくことができた。
「釜谷が私のところへきたのは――八十五年の春、五月ぐらいだったと思います」
 十三年前の春、浩一は一つになって間もない幼児を連れて、かつて親友であった宏嗣の元を訪れた。
「涼――萌田さんから離れたい、の一点張りで何があった、とも教えてくれませんでした」
 離れたい、という言葉に、涼は瞳孔を開いたが、宏嗣はそれに気づくこともなく、話を続けた。
 いくら宏嗣が人が良い、といっても一週間も一緒に住み、仕事も探さず涼香の育児にのみいそしむ浩一の存在は苛立ちの種となった。
 その頃から――浩一は不思議な能力を示したという。
「テレパシー、というんですか……」
 宏嗣の恋人で今は妻となっている良子がその能力を生かして会社へ浩一と涼香を託してしまえばよい、と進言した。
「正直、悩みもしたんですがね――そのうち、釜谷の方から言い出したんです」
 そして、この能力は自分のものではなく、涼香のものだから、二人を引き離さないでくれ、とも。
「それで――園川商事に勤めている、っておっしゃったんですか」
「……はい」
 浩一と涼香の能力は優遇され、何不自由ない生活を過ごしていた。
 宏嗣はそこまで説明して口をつぐむ。
「あの人と信吾がいなくなって――七年待って、死亡宣告してもらいました。
 涼はポツリと言った。
「日野さんは――園川商事としては、これから、信吾のことはどうされるおつもりなんですか?」
 涼の言葉に、宏嗣はハッと視線を上げ、涼を見た。
 その顔には疲労が色濃い。その大半は信吾の存在によるものではないか、と涼は思った。
 あくまで感情を見せまいとしながらも救いを求める目。
 涼はそんな目を知っていた。そして、自分がまだそんな風に人の救いを求める気持ちに気づくことができる事に驚いた。
「……もし、よろしければ、私が信吾を引き取ります」
 決意している程ではなかったが、考えていない訳でもなかった気持ちを涼は口にした。
 そんな言葉を何気なく言ってしまう涼に宏嗣は一瞬何も答えられなかった。
 母だという義務感からそんな言葉を口にしたのか――そう思わせる程涼は無表情だった。
「信吾も……十五になるんですね……」
 何か言葉を続けようとした涼は、宏嗣を見て黙ってしまった。
 宏嗣は何か言いたそうだった。だが、ためらいの感情が打ち勝って、結局何もいえないまま、涼を見ていた。
 ヘッドライトに反射して夜を映す雨はいつの間にかやんでいた。
「―― 一度、涼香ちゃんに会ってください」
 今の涼香の状態を口で説明するより、あわせたほうがよい、と宏嗣は決心した。その様子に、涼は自分が何のためかはわからないが覚悟を決めなくてはいけない事態に相対している事を感じた。
 大きな変化も時が過ぎれば平穏でしかない。――その事を涼は知っている。宏嗣は知らずに、変化に翻弄され続けてきた。だが、その変化ゆえに今の自分も、会社もあることを知っている。
 車で四十分ほど走り続けた所にあるマンションに車は止まった。
「釜谷は――涼香ちゃんに薬物を使用して、一人では生活できないような体にしてしまいました」
 駐車場に車を止めると、宏嗣は車を出ようとする涼にそう告げた。
「体も成長も遅くて――とても十五には見えません。そして、テレパシー能力は強くなっていきました」
 涼は再度座り直し、ルームミラーに映る宏嗣を見ていた。
「多分、僕の気持ちなど何でも読まれているんでしょうが、逆に、涼香ちゃんの気持ちが近くにいる僕に伝わる時もあります
「涼香ちゃんは、ずっと――ずっと、あなたを呼んでいます
 ずっとあなたを呼ぶ続けて、他の人を寄せ付けようとしません」
 涼は、浩一の事を考えていた。浩一の事を考え乍ら、ルームミラーごしに自分を見つめる男の目を見ていた。
「本当は、萌田さんに釜谷が死んでしまった事をお伝えするつもりはありませんでした。しかし……誰も、涼香に近づけないのです。近づくつもりで歩いていても、いつの間にか車の所までもどっているのです。
 正直、私は涼香が怖い。でも、彼女がいれば、味方にしてしまえば、怖いものはないのです」
「――それで、私に、説得しろ、と?」
「いえ……引き取っていただけるのなら、それでも結構です。……涼香も、それを望んでいるでしょう」
 涼は、宏嗣のその言葉に数々の感情がちりばめているのを見て取った。
「部屋は何号室ですか?」
「七階の七〇七号室です。――私は此処で待っています」
「……判りました」
 殆ど躊躇いも見せずに涼は車を降りた。宏嗣は驚いて後ろを向く。後部座席の扉がバタンと音を立てて閉まる。涼の靴のヒールの音がコツコツと車の後ろを回り、涼は運転席の扉の横までやってきた。何か言いたげなのに気付き、宏嗣は慌てて窓を開ける。
「もし―― 一時間待っても戻って来なければ、構いませんからお帰り下さい。此処の最寄りの駅、って木山ですね?」
「え、いえ。ちゃんと家までお送りします」
 慌てて言う宏嗣に、涼は答えなかった。答えずに、嬉しそうな、はにかんだような笑顔だけ返した。
 遠ざかるヒールの音を聞くともなしに聞き乍ら、宏嗣は混乱していた。
 宏嗣にとって、浩一と涼香は全く理解できないものであり、驚異ですらあった。そして、涼は全く違う方向ではあるが理解できない人であった。――と、思っていた。だが、今の笑顔は普通の人のそれであった。涼が普通の人であるならば、何故浩一と一緒になり、何故浩一と別れ、捜すこともせず、半分狂気に足を踏み入れた子供に愛情の片鱗もみせない無感動をもって、その子を引き取ろうとするのか――宏嗣には判らなかった。判らないままに、涼の後姿が自動ドアの向こうへ消えていくのを見ていた。

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