状態方程式 (8)
八.体と眼売り 「案内人……」 喜由は黙りこんでしまった案内人に不安を覚えてこわごわと声をかけた。 「俺の事なんて忘れちまえ」 突き放すように言って、案内人は立ちあがった。 「え?」 「後は体だけだ。体さえ見つかりゃ、俺達はおさらばして万々歳、ってわけだ。俺か優しいかどうかなんてお前には関係ないし、お前がどれだけお人よしか、俺には全く関係ない、ってわけだ」 案内人は足早に歩き始めた。 「案内人! そんなはずないだろう。少なくとも俺はあんたに感謝してるし――」 「感謝! ハッ! 感謝! 感謝なんて役立たずのもんはいらねえよ!」 「……それでも、感謝してしまうんだ……」 喜由はそう言って黙りこんでしまった。案内人は何も言わなかった。 空はくすんだ黄色をしていた。 案内人は歩いていた。時間のない空間に存在する歩きだった。 体が倒れていた。 「あれはお前の体か?」 体の足が動いた。 「いや――違う」 喜由はそう言ったが案内人はその体に近づいていった。 「違うと言ってるだろ?」 「ああ。他人の体だろ」 「じゃ、何も関係ないじゃないか。何でそっちの方へ行くんだ」 「この体を探している奴もいるだろう」 「探している奴なんていない! だから早く俺の体を探しに行こう」 「お前は何を興奮してるんだ。体があれば、その主がいる。そいつが体を探してるに決まってるじゃないか」 「その体を探している奴なんていない、って言ってるんだ」 「何故そう断言できるんだ」 「何故、って……」 案内人は少し笑った。もちろん、喜由はそれを知りようがなかった。 「分解体自身が自分の体を拒否してどうするんだ」 「お、おれの体でなんか……」 「ゴールだ」 案内人は両手を上げてその体に近づき、顔と腕のない体を起こした。 「……長かったな――と、おいっ!」 喜由――正確には喜由の体は逃げ出した。腕がないのでバランスがうまくつかめず走りにくいがそれでも視界は開けているので走る事はできた。 「何で逃げるんだ! お前だって、分解体でいるよりは、一体の人間でいる方がずっと嬉しいだろうが!」 「そりゃあ嬉しいさ。自身の意思で自分の感覚で動けるんだからな。――けどな、俺ができちまう、って事はつまりお前と別れなきゃいけない、って事だろ? 俺にそのつもりはなくともあんたは何処かに姿を消しちまうんだろ? 俺はそれが許せないし、たまらないんだ!」 「――なんて人間だ」 案内人は軽く舌打ちし、その瞬間名案を思いついた。喜由の両眼を塞ぐ。 「あ、くそっ! なんて事しやがる!」 喜由の両腕がなんとか案内人の腕を放そうとしたが叶わなかった。走る事も、歩く事すらできなくなった。茫然と立ちすくむしかなかった。 「いいか。俺の事なんて忘れろ。ま、忠告しなくったって、そのうち忘れちまうだろうがな。自分が分解体だった、って事も、俺の事も、忘れちまえ」 「……忘れられるかよ」 「忘れるべきなんだ」 案内人は手を離した。今度は喜由は逃げなかった。 「……こんな事を言えば、亦あんたは叫び出すかもしれないが、俺でも自分で驚いてるんだが――俺はあんたが好きなんだ」 案内人は何も言わなかった。体の傍に歩み寄った。 「確かに、あんたは俺に対して冷たかったけど、無愛想だったけど……それでも俺は好きなんだ」 喜由の両手を喜由の肩につける。継ぎ目が消えていくのを喜由は他人事のように自分の眼で見た。 「別れたくない。雷造じゃないが、俺はまだ自分が何者なのか判らないんだ」 「考える事だな」 「考えるさ。けれど、考えても、考えなくても結論は同じだ。俺はあんたと別れたくはない。けれど、俺の体ができちまえばあんたとは別れなくちゃいけない、って事だ」 手についていた耳と鼻と口を頭につける。 「別れる。それで結構じゃないか」 「俺にとっては結構じゃない」 「何故だ。俺はお前が嫌いだし、俺自身も嫌いだ。別れたくない理由なんてないだろ」 「判るかよ。俺だって、自分でどうなってるんだか判らないんだ」 案内人は喜由の眼を取った。 「案内人。最後に教えてくれ。あんたの名前は? 俺はあんたが案内人である、って事以外、何も知っちゃいないんだ!」 喜由の顔に眼がついた。喜由は案内人が呆れたように笑っているのを見た。 「あばよ。今の俺には名前なんてない――」 光が来た。 案内人のいたところから黒い光が出た。思わず喜由は手で眼を覆った。 光がおさまり、喜由がそこを見た時、案内人はいなかった。辺りを見まわしても案内人はいなかった。 「案内人!」 喜由は叫んだ。返事はなかった。 「完成したな。おめでとう」 背後で声がした。喜由はぎょっとして後ろを振返った。 フードをかぶった老人が眼をお手玉にしていた。 「あんたは……眼売りのじいさんか?」 「世間一般ではそう呼んでるな」 「あんた、案内人を知らないか? 俺の体を完成してくれた案内人が何処に行ったか知ってるか? つい今まで一緒にいたんだ」 「それを聞いてどうするつもりや?」 眼売りはお手玉の手を休めずに言った。喜由は答えるのに一瞬戸惑った。 「案内人の事は――奴の事は早々に忘れてしまうんだな。忘れられなくても、忘れたふりをする事や。それより、早く自分のしたい事を見つけ」 「……案内人はどうなったんだ?」 「そういう事はお宅には教えたらあかん事になってるんや」 「何故だ? 知ってるのか?」 「――そのうち判るようになるて」 「そのうち、っていつ?」 喜由が苛立たしそうに言うと、眼売りは手を止めてにたり、と笑った。 「案内人――奴とは、いつかまた、会えるやろうて。世間は思ってるよりずっと狭いもんだ。――ま、奴の方はお宅のことは覚えてないだろうけど」 「……あんたは、一体何者なんだ?」 「何者――って、ただの眼売りやがな」 「自分でやりたくてやってるのか?」 眼売りは亦にやりと笑った。 「そうや、と言いたいことやけど、残念ながらちゃうな」 「義務、か?」 「義務で動いてるのは案内人。わしは償いのために眼売りをしてる」 「償い? 何の?」 「さあ? 忘れてしもたわ」 眼売りはかっかっか、と笑った。 「――俺に何の用だ」 喜由は苛々して言った。 「別に。わしは完成体におめでとうの言葉をかけんのを楽しみにしててな。みんな、大抵喜んでるのに、お宅はえらい残念そうやな。――案内人に愛着を感じてしもたんか?」 「――悪いか」 喜由はむくれて言った。 「悪かないさ。ちょっと驚いてるけどな。お宅はよっぽど人が好きなんやな」 喜由は何も言わなかった。 自分が人が好きかどうかなんて判らない。自分が知っている人は突風のように去って行った雷造と案内人だけだった。 「案内人――奴に会いたいんやったら、できるだけ長生きする事やな。好きな事をじっくりやって、飽きひんかったらいくらでも生きてられる。奴はあんたの事覚えてないけど、あんたが奴の事覚えてて、まだ奴の事が好きやったら、何とでもなる」 「何故案内人は俺の事を覚えてない、って断言できるんだ? 少しぐらいは俺の事を覚えてるかもしれない」 「そのうち判るさ」 「だから、そのうち、っていつだ?」 「人生に疲れるようになった途端、全てが判るようになる。それか、わしみたいに償い続けるしかない身になったときにな」 喜由は何とも言えなかった。眼売りは今度は優しく笑った。 「心配する事あらへん。お宅は気のええ人やからいくらでも幸せになれる。仲間かて作れる。何一つ心配する事あらへん」 「案内人は……」 「まずはじっくりと生きてみ」 眼売りはそう言って笑っていずかたともなく消えてしまった。 なんてじいさんだ。俺を悩ますだけ悩ましておいて、さっさと何処かに消えてしまった。俺はただ、案内人がどうなったか知りたかっただけなのに。知っているような素振りをしておいて教えないなんて、なんて性悪なんだ。 喜由は一息ついて、改めて辺りを見まわした。ビルとビルの間に河が流れており、そのほとりで人間が楽しそうに遊んでいた。 何をするにしても――俺は、まず、仲間を作り出さなくっちゃ。 喜由はその人間達の方へ歩き出した。 「じいさん。その眼をくれ」 案内人が言った。 「新しい案内人か。大変やな」 眼売りの老人は笑って言った。案内人は暗い表情で何も言わなかった。 「一人目か?」 「ああ。いつになるかな……」 「さあてな。分解体がどうか、お宅自身がどないか……それはわしにも判らんからな」 老人は眼二つを案内人に渡した。案内人はその眼を自分の眼の下につけた。 「それじゃ――亦会いに来るかもしれんが……うまくいったら、次の世で」 「ああ。頑張れよ」 四つのうつろな覇気のない眼が眼売りから視線をはずし、案内人は背を向けて歩き去っていゆく。 老人は残った眼をお手玉にしていた。 空は白くかすみ、人間はその下で忘却に包まれた幸せな生活を暮らしていた。 (おしまい) 初書 1987.12.5.-12.16. |