状態方程式 (7)
七.次いで進展なし もし、雷造が案内人を無視して立ち去ったとしても、案内人はそれをひき止めはしなかったであろう。しかし、雷造はその事を知らなかったし、知っていたとしても、やはり案内人に何かを言わずにはいられなかったであろう。 「案内人!」 雷造は叫んだ。その声で、喜由はどういう事が起きたか大体推測できたが、それと同時に大変驚いた。 案内人は俺を待っていたのだろうか? 案内人は何も言わず、体の重心を体内に戻し、雷造に近づいた。 「な、なんだよ」 雷造は案内人のその動きを自分に対する挑戦と取った。 しかし、案内人は何も言わず、雷造の手の上の喜由の両眼を取り、自分の眼の下につけた。そして、喜由の両腕もつける。そして、歩き出した。その間、全く口を開かなかった。 少しばかり案内人が離れて、喜由が案内人に呼びかける声を聞いて、雷造は我に返った。 「案内人!」 呼ばれて案内人は立ち止まった。喜由は案内人が立ち止まった事に少し意外さを感じ、同時にほっとした。雷造を捨てておきたくなかったからである。 雷造は案内人の横にやってきた。案内人は雷造を見た。そして喜由も雷造を見た。雷造は怒っているようであった。 「案内人、君は案内人でいる資格なんてないよ!」 雷造は返事を期待して叫んだが、案内人は変わらず何も言わずに雷造を見ていた。その眼には何の感情も浮かんでいなかった。雷造は少し戸惑ったが続ける事を決心した。 「自分から、喜由の案内人である事を放棄しておいて、そ、それで、困らせておいて、で、なんとかやっていけそうになったと思ったら現れて、案内人面して……そ、そんなの、ずるいよ! 卑怯だよ!」 雷造は叫んで少し黙った。しかし、案内人は何も答えなかった。雷造はますます苛々してきたようだった。 「何だよ! そ、その眼は! 何か言いたい事があるんなら、ちゃんと僕に言えばいいだろ!? な、何にも言わないで、人を見下したような眼で人を見るなんて、最低だ!」 案内人、どうして何も言わないんだ? 喜由はハラハラして案内人の心に話しかけた。 興奮した人間には何を言っても無駄だ。相変わらずの無愛想な返事であった。しかし、喜由は案内人が自分の言葉に反応してくれた事でホッとした。 しかし、このままだと雷造はますます興奮する。何か言って、冷静にしてやってくれ。 お前が言えばいいだろう。 俺じゃ駄目なんだ。お前じゃないと駄目なんだ。 何故だ。 喜由は答えられなかった。喜由がそう思ったのはただ直感からだからである。 雷造はますますヒステリックになり、何を叫んでいるのか判らなくなっていた。 まあ、いいか。多少うるさいからな。 「泣き虫野郎、うるさいぞ」 案内人は冷たく言った。 「な、なきむしやろう……?」 雷造がその意味を解し、次の怒りの波が来るまでの少しの間があった。そして、案内人はその間を逃さなかった。 「俺は、こいつの案内人だ。いくら俺がそれを放棄しようとしても、その事はどうしようもない事実だ。だが、俺はその事実に背を向けた。俺だって人間だから、義務を放棄してしまった事に多少の責任を感じている。だから、その責任を果たすために、少しはお前の愚痴につきあってやろうとした。だが、お前はうるさすぎる。それに、言ってる事が感情的で支離滅裂だ。そういう事に対しては俺は反応しようがないし、聞きたくもない。それに、俺が黙っていたら、それをいいことに、永遠に愚痴を続けるだろう。お前も判っているかもしれないが、俺は案内人だ。お前の聞き役じゃない」 案内人はそう言って歩き出した。雷造は驚いて、案内人の横について、一緒に歩く。 「それじゃあ、案内人、君はもう義務を放棄した、って事に対して、今では全然後ろめたさを感じてない、ってわけ? もう、何の償いも払う必要はない、って言いたいの? そんなに、君は自分が正しい、って言い張るつもりなの?」 案内人は歩く速さを少しゆるめ、雷造をちらりと見た。 「もし、お前が続けたいのなら、俺の動きを妨げないようにしろ」 雷造の表情に、今までとは違ったものが生まれた。 「ついて行っていいの?」 「邪魔しないならな」 「最後まで?」 「用事が済んだらさっさと行ってしまえ」 案内人は冷たく言い放ったが、雷造は殆ど聞いていない様子であった。雷造は<案内人>と共に歩いていける、という事に喜びを見出したのである。 案内人は無表情であった。喜由は何も言わなかった。傍観者に徹することに決めたのだ。喜由が言いたい事はだいたい雷造が言ってくれるであろう。案内人の表情が見えないのは残念であったが案内人の怒りを受ける事なしに知りたい事を知る事ができるのだから満足であった。 「何処へ行くの?」 出会った頃とはうってかわったにこにこ顔で雷造は尋ねた。 「知るか。行き当たりばったりだ」 「喜由の体を探しに行くんだろ? ねえ、分解体の体が全部そろったら、案内人はどうなるの? どうしたら案内人になれるの?」 「なりたくてなる奴はいねえよ、案内人には。それより、したい事をしろ」 「僕、したい事がないんだ。だから、案内人になりたいんだ。案内人が今の僕に一番近いからね。生きる望みをなくした人間。こんな僕に、一体何をしろ、って?」 案内人は答えなかった。 「ほら、言えないだろ? 他の人達は、みんな、好きな事を見つけて自分の世界で生きてる。でも、僕は自分の世界を作る事はできないし。他の世界に入れてもらえる事もできないアウトサイダーだ。ただ、ひたすら悲しいこの世界で夢も希望もなく朽ち果てていくんだ。僕ほど不幸な人間、っていないよ」 「お前ほど幸福な奴がこの世で一番不幸だとすれば、この世はよっぽど幸せなんだな」 案内人は言った。怒っているとも、嘲っているとも、笑っているともとれるような声であった。 喜由は来たな、と思った。短気な案内人が雷造に何も反撃を加えずにすます筈がない、と思っていたのである。 「え?」 「考えろ。考えてみろ。他人に頼らずに、まず考えてみろ」 「考える、って……何を?」 「どうやら、お前は保護を抜け出たばっかりの青二才みたいだな。他人に頼って、受身ばかりで、何もかも与えてもらう事で生きてきたんだな。少しは同情してやるよ。だから、教えてやろう。一つだけ。<考えろ>。いいか、<思う>じゃなくて、<考える>だ。全てを、な」 雷造は戸惑った。そして、喜由も戸惑っていた。 今の言葉は、案内人に親切心なんてものがある、って事の表れじゃないのか? 「<思う>と<考える>は違うの? 考える、って何を? どうやって?」 「まずはそれを考えるんだな」 雷造はムッとした顔つきになった。 「それってただの屁理屈じゃないか! どうして素直に教えてくれないんだよ!」 「俺には、お前がそういう風に言って、問題をそらそうとしている事こそ屁理屈だと思うがな」 雷造は返事できなかった。 「もし、お前が自分で進まずに、泣いて教えてもらうだけで満足なら、考えなくてもいいぜ。正直なところ、俺はお前なんかどうなったって関係ないしな。だが、もし、この世の人間並みに、したい事をして幸せを充分に感じる事ができるような人間になりたいのなら、考える事だ。奴等はみんな自分のために自分の事を考えてる。ま、何もかも放棄する奴等もいるがな。そいつ等だって、考えて考えた末にそうしたんだ。案内人はその先だ」 「案内人は考えないの?」 「大抵はな。俺は。他の奴は知らん」 「考えないの? したい事を見つけないの?」 「そういう事を案内人以外の奴に言う事は禁句だ。――ま、嫌でもそのうち知るようになるがな」 「考えたら?」 「考えて、行きついた先にな」 雷造は黙った。その表情には悲しみも怒りもなかった。 案内人は一つのビルに入った。 「ビルに入るのか?」 喜由は口を開いた。 「ああ。いつまでも子持ちじゃ、疲れるからな」 「僕を何処に連れていくの?」 「お前にぴったりのところだ」 そう行って案内人はドアの前に立ち止まった。ドアには<現代思想倶楽部>と書いてある。 「思想とは書いてあるが、ようは多数の人間が考えるところだ」 「行け、っていうの?」 雷造は戸惑った顔つきで案内人を見た。 「お前が決めろ。俺は知らん」 そう言い捨てて案内人は雷造に背を向けて歩き出した。 喜由は案内人に何か言いたかった。しかし、言いたい事を言葉として表現する事ができなかった。案内人の表情を見てみたかったし、案内人が一体何を思って雷造にあのようなことをしたのか知りたかった。案内人の雷造に対する今の態度は、案内人の優しさの表れなのだろうか? 「振り向かないのか?」 喜由はもっとも喜由らしい質問をした。 「振り向いて欲しいのか」 案内人は無愛想に言った。 「雷造が行ったかどうか知りたい」 喜由の言葉に、案内人は何とも言わなかったがちらりと首を後ろに向けた。 ドアを開けて、雷造が中に入ろうとしていた。 「満足したか」 「ああ。……有難う」 喜由は心の中で二つの感情が交錯しているのを感じた。よかったと思う反面、共感できる仲間を失ってしまった淋しさを拭い去ることができなかったのだ。 短い夢を見ていたようだ。いや……もしかするとこれも夢かもしれないな。 案内人は動ずる事なく歩き出し、外に出た。迷彩色の空だった。 「案内人」 喜由は少しばかり勇気を出した。 「何だ」 「案内人が外にいたのは、その……俺を待っていたのか?」 「出てくるお前を待っていた」 「もし、雷造が俺を見捨てて逃げてしまっていたら? それならどうしていた?」 「知らん。仮定に基づく話はやめておけ、と俺は言った筈だ」 「駄目だ。逃げないでくれ、案内人! 俺は知りたいんだ。お前が――あんたが、少しでも優しさなんてものを持ってると信じている俺はだまされてるのか?」 「優しさだって!?」 案内人は驚いて叫んだ。そして、口を歪めた。 「お前って奴は、全く……」 案内人はその場に座りこんだ。案内人には知る由もなかったが、喜由は真剣な表情であった。 |