状態方程式 (6)
六.進展なし 「眼渡しのじいさん?」 喜由は不思議そうに訊ねたが、それが誰かはだいたい予想がついていた。 「うん。案内人はいつでも眼から始めるんだ。それを持ってるんだ。何者なのかは誰も知らないけどね。それで、じいさんのところへ行って、これをくれ、って適当な眼を指差したんだ。――だけど、『お前は案内人じゃない。案内人にはなれない』って言って、じいさんは亦眼をお手玉代わりにして遊んでた。僕は、目の前が真っ暗になったような気がした。それで、思わず涙が出てきた。それでも立ち去らずにじいさんに『なんで僕は駄目なの?』ってきいたんだ。そうするほど僕は案内人になりたかったんだ。判ってくれるだろ? じいさんはそこで初めて僕を見た。そういや、僕が眼をくれ、って言った時、僕を見もしなかったのに僕は案内人じゃない、っていってたなあ、どうしてだろう? とにかく、僕を見て言ったんだ。『案内人はなりたい奴はなれない。案内人はタブーだ。案内人は義務で案内人をするのであって、したくてするもんじゃない』って。あのじいさん、読心術でも持ってたのかなあ。 でも、ショックだったよ。本当にショックだった。だって、ようやく見つけた道だったのに、それがあっさりと通行止めになっちゃったんだもん。僕、どうしていいかわかんなくって、亦泣き出したんだ。じいさんはそのまま眼を持ってどっかに行っちゃった。冷たいよ。みんな。冷た過ぎるよ。僕は、本当に悲しかった。きっと、義務とやらに縛られている案内人よりもずっと悲しい目にあってるんだ。そうでなきゃ、僕がこんなに泣ける筈がない。案内人が泣いてる姿、って、見たことないもの。 それで、僕はますます目標をなくして、訳がわかんなくなって、悲しかった。どうしようもなかったよ。泥沼に入り込んだんだ。僕よりは、案内人の方がずっと幸せだ、って思って。僕は本当に不幸だ、って思って。――それでも、僕は案内人に憧れを持ってたんだ。もし、世界の仕組みが変わってやりたい人が案内人になれるようになったら、僕もあの暗い眼をした案内人と知り合いになろう、あの案内人に仲間入りしよう、って思ってたんだ。 でも、一体、そうなるのはいつだろう。本当にそういう風になるんだろうか。もし、そうなっても、亦、したい事をしている明るい人達も案内人になってしまったら、僕はどうすればいいんだろう、って不安になったんだ。不安だよ。僕は、わずかに生きる事に明かりを見出したと思ったけど、同時に大きな不安も背負う事になってしまったんだ。僕は、それも嫌だった。だけど、戻れる訳がないだろ? 突然記憶喪失になるわけにもいかないし。仕方がないじゃないか。だから、僕は時代が変わるのをひたすら待ったんだ。自分でも驚くほど辛抱強かったよ。やっぱり、途中何度も泣いたりしたけど、僕はやっぱり待ってたんだ。ホントだよ。ずっとずっと待ってたんだ」 「今は待ってないのか?」 左手についている喜由の口は言った。途端に、亦雷造は泣き出した。 「だって、待ってられないじゃないか。いつまでたっても時代が変わらないんだもの。人は変わるのに、時代だけはいつまでたっても終わりそうにないんだもの。やっぱり、怖いし、悲しいし、どうしようもなくなって……気が狂いそうだったんだ。もしかすると、もう狂っちゃってるのかな? そうかもしれない。人が怖い僕が他人に話しかけられるなんて、今でも信じられないもの。 とにかく、僕は、怖くて悲しくて淋しくて堪えられなかったんだ。すると途端に空が黒くなった。世界は僕をどんどん悲しくさせて押し潰すつもりなんだ、ってますます悲しくなった。そんな時、君と、案内人を見かけたんだ。案内人はとても悲しそうに見えたし、君は淋しそうに見えた。だから、本当に、話を聞いて欲しくなったんだ。自分でも驚くほどその気持ちは強くなっていった。だけど、もし、拒否されたらどうしよう、もし拒否されたら、僕は悲しみに押し潰されてぺちゃんこになっちゃうだろう、って思ったんだ。とっても怖かった。だから、せめて腕の君に話を聴いて欲しいと思ったんだ。耳や口もないけど、僕を拒否する事もできない。僕、ってなんて賢いんだろう、って感心したよ。それで君の右手をもらって走っていったんだ。だけど、案内人が僕を追いかけてくるのを見てびっくりした。その時になって、初めて、この右手がなければ案内人は義務を遂行できず、解放される事もない、だから僕の右手を奪い返すつもりなんだ、って気づいたんだ。必死で逃げたよ。そのうち、案内人はいなくなって、僕は話し始めたんだ。右手は、君と違って返事をしてくれる事はなかったけど、僕がいくら喋っても逃げなかったし、僕が握手をしたらぎゅっと僕の手を握ってくれた」 「愛嬌のある人間は好きなんだ」 喜由は少し照れて言った。雷造は意外そうな顔をした。 「愛嬌がある? 僕が?」 喜由はそこにはない首を頷かせた。 「案内人に比べればずっと愛嬌がある。相手に何らかの呼びかけをしてくれる人間を見ると嬉しくなる。案内人はこっちから呼びかけないと答えてくれないし、大抵は怒ってばかりだ」 雷造は少し茫然として喜由の眼を見ていた。喜由は少しとぎまぎする。 「な、なんだい?」 喜由が声をかけると雷造ははらはらと涙を流し始めた。 喜由は驚いた。今度は別に悲しいと思わせるような事は何も言わなかったつもりだった。 「ごめんよお。僕のせいで、僕のせいで、僕のせいで……」 雷造はついに大きな声を出して泣き出した。喜由はやれやれ、と軽く溜息をついた。 「仕方がないさ。俺が意地をはっちまったんだから、俺の責任なんだ。雷造が気にする事はないよ。元々案内人とは相性が合わない、って思ってたし」 雷造は泣きやまなかった。喜由はこれ以上慰めても雷造の耳には届かないだろう、と諦めて空を見た。 今度の空は桃色だった。これは悪趣味だな、と喜由は思った。そして、一体空の本当の色は何色だったのだろう、とぼんやり考えた。 「案内人、ってもっと優しいと思ってたんだ。ちゃんと、僕の話を聞いてくれると思ってたんだ。こんな、こんな……」 雷造はしゃくりあげながら言った。 「こんな、分解体を見捨てる案内人なんて、いると思わなくて、そんな、義務なのに、義務を捨てて行っちゃうなんて……」 「それは俺も思ったけどな。義務、ってもんは、そんな捨てられるもんなんだろうか、って」 「でも、案内人は捨てて……」 「今回じゃなくて、その前にも、案内人が怒って俺を捨てようとしたことがあるんだ。『俺はその義務を遂行する権利も、遂行しない権利も持ってるんだ』って言ってな。いつでも俺が折れてそのまま体を探してもらってたけど」 「そんなの、嘘だよ! 案内人は義務を遂行しない権利なんて持ってない! その案内人は嘘つきだ! 嘘つきのくせにえらそうな口をきいて、許せない! 僕みたいに案内人になりたくてもなれない人間がいるのに、案内人になったのに義務も果たせないのに、なんて奴!」 喜由は雷造の突然の変化に戸惑った。先刻までただただ泣いていた者が怒りだし、とても力強くなっていた。喜由は驚き、そのまま何処かに暴走してしまいそうな雷造に不安を覚えた。 「義務を放棄した案内人はどうなるんだ?」 喜由は話題を変えた。 「わかんない。僕、義務を放棄した案内人なんんて見たことないんだもの」 一瞬にして雷造はもとの気の弱そうな様子で答えた。 「じゃ……じゃ、分解体を組み立てた案内人は一体どうなるんだ? 案内人を続けるのか?」 案内人自身に尋ねたくて尋ねられなかった問いを口にした。 「それもわかんない。案内人が全部の体を見つけたのを見た事はないんだ。まだ途中の体をつけたか連れてる案内人を見たことは割合あるんだけどね。喜由は案内人に訊いてみなかったの?」 「訊いたら、亦不機嫌な答えが返ってくるんじゃないかな、って思って。あの案内人は他人に対してやさしい感情、ってものをあんまり持ち合わせてないみたいだから」 「あんまり、なんてもんじゃないだろ? 全然、だよ。分解体、っていう不自由な弱者を見捨てて行っちゃうなんて、冷酷非道だ、非人間だよ。少しでも情を持ってるんなら、少しでも他人を思いやる気持ちがあるんなら、絶対こんな事しないよ」 雷造は強い口調で言った。 「確かに、な」 喜由はそう言って苦笑した。雷造に言われると何故だか反対に、自分がそんなに哀れな弱い立場にいるわけではない、という気になってくる。 「それより、これからどうするかな。案内人がいないんじゃ――」 「僕が案内人になる!」 雷造が嬉々とし叫んだ。喜由は驚いたが、別に反対する理由もなかったのでそのままない首を頷かせた。 雷造は袖をまくりあげ、喜由の腕をその肩につけようとした。――しかし、腕はつかなかった。そして、眼についてもそれは同様だった。雷造はがっくりと肩を落とした。 「案内人になれない、っていうのはこういう事だったのか……」 「いや――でも、眼も耳も口もあるんだから、話し合うのに問題はない。あとは、体だけなんだ。もし、まだ君が俺の案内人をしてくれるつもりなら……その……運んでいってくれないか?」 利己的な、あつかましい願いだ、という思いが喜由の声を小さくした。 しかし、雷造はすんなりと頷いた。 「うん! 僕、頑張って、案内人になるよ!」 雷造は喜由の腕、眼を両手に抱え、歩き出した。そして、森を出る。 「何処へ行こう……」 雷造は悩んであちこちを見回し―― 喜由は視線を動かす事ができなかったので雷造が叫び出すまで気づきようがなかった。 案内人が、木に寄りかかって立っていたのだった。 |