状態方程式 (5)

状態方程式6
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    五.進展の気配なし
    
 喜由は茫然としていた。案内人の姿はもう見えなかった。
「……ごめん。ごめんよお。僕のせいで、僕のせいで……」
 人間は泣き始めた。喜由はその人間の感情が押さえられない様子を見て取って、まず自分よりこちらの方が問題だ、と思った。
「起きてしまった事は仕方がない……。それより、君の話はいいのか?」
 喜由に言われて、人間は、亦、泣き出した。この涙は一体何処から涌き出てくるのだろう、と喜由はぼんやりとそんな事を考えていた。
「僕、淋しいんだ。悲しいんだ。僕ほど不幸な人間、ってきっといないんだよ!」
「一体、何が不幸なんだ?」
「したい事が何もないんだ!」
 そう言って人間は亦わんわんと泣いた。喜由は言葉をかけるタイミングが掴めず、黙っていた。
 暫くして、人間は大声をあげるのを止めてしゃくりあげていた。
「名前はなんて言うんだ? 俺は工藤喜由」
「ナ、マエ……。僕は吉木雷造」
 人柄にあっていない名前だ、と喜由は思ったが雷造には何も言わなかった。
「僕は、お母さんから生まれたんだ。それでお父さんとお母さんに育てられたんだ。弟もいたんだ。一つ下の、とってもかわいい弟だったんだ。
 ほんとに、ほんとに幸せだったんだ。できることなら、ずっとあのままいたかったんだ」
 雷造はまたぐずぐずと泣き出した。喜由は話の全体が見えていなかったのであまり同情する事はできなかった。
「そうしたら、お父さんが子供を育てなくなって、弟は育てられる事を嫌がって何処かへ逃げていった。お母さんはいなくなって、見ず知らずの人が何でも知ってる、っていう顔で話しかけてきたんだ。『雷造、お前はしたい事をしなくてはいけない』。
 僕、わかんない、って答えたんだ。そうしたら、その人は笑って言ったんだ。
 『お前の自我はまだ目覚めていない。若すぎる。けれど、お前は保護を失い、同時に自由にもなったのだ。だからお前は、自分のやりたい全てを、自分のやりたいようにしなくてはいけないよ』って。でも、僕、やっぱり自分のやりたい事、ってわかんなかった。一番やりたい事、って昔に戻る、って事しかなかった。また、お父さんとお母さんと一緒に楽しく暮らしたかった。だから、そう言ったんだ。亦、昔のように暮らしたい、って。そうしたら、その人は亦笑って――優しい笑顔だったけど、なんか、よそよそしかったな。それで、言ったんだ。 『それは何かをされるのであって、するのではない』って。そう言われても、僕、わかんなかった。それで、訊いてみたんだ。どんなことをすればいいのか、って。
 『自分で考えなさい』って言われたよ。ひどいと思わない? 僕は困ってたんだ。困って、どうしようもなかったんだ。困ってどうしようもない人を助けずに、ただ笑って、訳の判らない事をうだうだと言うんだ。僕、たまんなかったよ。
 それで逃げたかったんだけど、逃げられなかった。だって、そうだろ? 僕は、その人以外、頼れる人がいなかったんだもの。今になって思うけど、あの人は一体誰だったんだろう?
 とにかく、僕は、わかんなかったんだ。何もわかんなくって、怖くって、泣き出した。だけど、その人は僕を慰めてくれなかった。お父さんやお母さんのように。ただ、笑って、僕を見ていた。
『だから私は言っておいたんだ。後悔する前に幸せから足を洗っておけと』その人が言ったんだ。冷たいよね。泣いてる僕にそんな言葉をかけたんだ。僕はだんだん怖くなって、ますます声をあげて泣いたんだ。こうすれば、いつかお母さんかお父さんが来て慰めてくれる、って思って。けど、誰も来なかった。
 その人はいろいろと訳のわかんない事言ってた。僕は覚えてる。家族以外でかわいそうな僕に声を掛けてくれる人はそうそういなかったから。でも、殆ど訳がわかんなかった。
『泣きすぎると脱水状態になるぞ』とか『永遠に歩きつづける事はできないから少しぐらい立ち止まるのはいい。だが、永遠に立ち止まる事もできないんだ』とか『この世には無限の道があって無限の可能性があるようにお前は思ってるかもしれないがそうではない。この世には道も可能性もないのだ』とか。
 それでも、僕は泣いていた。答える事ができなかった。それでもその人は笑ってたんだ。僕は、本当に訳がわかんなかった。全てが夢ならいいのに、って思った。それとも、僕は本当はもう既に死んでいて、天国か地獄にいるんじゃないか、って。それは今も思うよ。こんなのが現実だなんて、僕は信じたくない。僕にとっての真実、現実はお父さんやお母さんや弟のいた、あの幸せな生活でしかなかったもの。今の僕はとっても不幸で、早く現実に目が覚めるか、生まれ変わらなくちゃいけない。でも、いくらそう思っても、僕は今の僕で、いつまで経っても幸せな僕に戻れないんだ。それが僕をますます悲しくさせるんだ。悲しい自分を自覚するほど、悲しいこと、ってないもんね。
 それで、僕は泣いてたんだ。そうしたら、その人はやっぱり笑ってて、『お前のやりたい事は泣く事だったのだな』って言って、行っちゃったんだ。僕はますます訳がわかんなかった。僕を助けるような顔をして、結局、訳のわかんない事を言うだけ言って、行っちゃったんだ。それで、僕は本当の意味で一人になっちゃった。誰も僕に声をかけようとしてくれない。僕は、だから、泣いたんだ。本当に悲しくって、泣いたんだ」
 雷造はそこで一旦口を閉じた。今ではしゃくりあげるのもようやく納まり、最初には途切れとぎれでしか判らなかった言葉が一つ一つの文を構成していた。
 喜由は反応のしようもなく、困っていた。不思議と、雷造を最初に見た時、胸に湧き上がっていた同情心はすっかりしぼんでいた。
 雷造は頬の涙をぬぐって口を開いた
「それで、ずっと泣いて、泣き疲れて眠って、起きた。それから歩き始めた。大声出して泣くのに飽きる、って事もあるんだね。でも、やっぱり、すぐ泣いちゃう。お母さんやお父さんと一緒にいた時は滅多なことで泣かなかったんだけどね。きっと、この世の人がみんな冷たすぎるから、泣くより他に道がなかったんだ。
 あっちこっち歩いていくうちに、いろんな事に出会ったよ。悲しい事が多かった。そのうち気がついたんだ。みんな、自分のしたい事してるんだ、って。見て、驚いたよ。みんな、こんな悲しい世界なのに、泣かずに眼をきらきらさせて。笑ってる人もいた。幸せそうなんだ。僕は本当にびっくりしたよ。何がなんだかわかんなかった。わかんなくなって、亦悲しくなって泣き出した。こういう感情、ってセーブがきかないんだ。
 それに、みんな楽しそうな顔をしているくせに、その楽しそうな顔をちっとも僕の方に向けてくれなかった。ううん、僕の方を見る人はいたよ。でも、僕を見てくれる人はいなかった。僕のいる空間を見ていたんだ。僕はそこにいるのに、まるで僕はそこにいないかのように、僕の方を見たんだ。それが余計に僕を悲しくさせて、僕は泣いた。本当に、どうしようもなかった。誰かが、きっと僕を見つけてくれて、僕を幸せにしてくれると思ってた。だけど、誰も僕を見つけてくれなかった。僕に気づいてくれなかった。それで、僕は泣いた」
 雷造は言いながら、亦、泣いた。
「……どうして、俺の右手を取ったりしたんだ?」
 喜由はようやく言葉を搾り出した。雷造はうるんだ目で地面に転がっている喜由の眼を見た。
「長い事歩いた。中には、僕みたいに歩いてる人もいた。でも、そういう人達は、みんな、歩きたくて自分の意思で歩いていた。僕みたいに、悲しくて、泣きながら、それでも仕方なしに歩いてる人間はいなかった。
 そんな時、案内人を見たんだ。喜由と案内人じゃない、別の案内人だった。僕は見たんだ。案内人の眼は、したい事をして幸せを感じている眼じゃない。それに、案内人の眼の下にある二つの眼も決して幸せそうじゃなかった。そりゃ、泣いてはいなかったけど、この世界の他の住人達よりは、ずっと僕に近かった。
 僕はその案内人の眼と他人の二つの眼を見て、初めて嬉しい気持ちになった。家族がいなくなって以来、初めての事だったよ。僕は、仲間を見つけたと思ったんだ。僕はその案内人をじっと見ていた。案内人は僕に気づいてくれた! すごく嬉しかった。僕は、他人に自分の存在を認めてもらったんだ。
 けれど、案内人は僕の存在を認めてくれたけど、僕に声をかけてくれなかった……」
 雷造はうなだれた。
「どうして君からその案内人に話かけなかったんだ?」
 雷造は、喜由の眼を見た。雷造は泣きはらした、赤い目をしていた。
「そりゃあ、話しかけようか、とも思ったよ。でも、やっぱり、僕は、まだ、そこまで、そんなにまでして仲間を求めよう、って気にはなっていなかった。案内人は、僕と眼をあわせて、暫くしてさっさと行ってしまった。僕には案内人を追いかける勇気はなかった。僕は案内人に好意を持ったけど、もし向こうの案内人が僕を嫌っていたらどうしよう、って。可能性は可能性のまま置いておいた方がいいんじゃないか、って。
 それから、僕は案内人を探した。案内人と分解体。やっぱり話しかける事はできなかったけど、幾人かに会ったよ。殆どが、そんな、したい事をしてる人間とは違う、目標のない顔つきだった。僕は、案内人の存在は知ってたけど、案内人自身については何も知らなかった。何もかもおおっぴらな人々とは、そういう点でも違ってたんだ。みんなも、案内人については殆ど知らなかった。僕は、そんな案内人に憧れたんだ。案内人こそが、僕のなるべきものだと思った。したい事もなく、ただ、だらだらと人の体を探し続ける――素敵だと思わない? 僕は始めてしたい事を見つけたような気がした。そうして、僕は案内人になろうとして、眼渡しのじいさんのところへ行った」

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