状態方程式 (4)
四.耳と断絶 向こうの案内人は陽気そうに何か言った。 しかし、案内人は答えず、口と鼻を見て何処につけるか悩んでいた。 向こうの案内人が亦何か言い、案内人が頷く。 あと鼻だけを残す分解体が向こうの案内人をせかし、案内人は頷き、こちらの案内人に話しかける。 案内人は何か答えたらしく、陽気な案内人はにっこりと笑い、鼻のない人間と共に去っていった。 空は灰色になっていた。 案内人は口と鼻をそれぞれ喜由の手のひらにつけた。 グロテスクだな。右手の掌の口が言った。 喜由自身はその声を聞く事はできなかったが、案内人にとっては初めて聞く喜由の生の声であった。 あとは、頭と耳と体と足か。喜由は言ってから長いな、と思った。 頭と体と足は一つだ。 案内人は屋上から屋内に入った。空はますます暗くなってきている。 どうして俺の口と鼻の場所が判ったんだ? 喜由は訊ねた。 あの陽気な案内人が歌が聞こえる、って言ったんだ。それが俺の聞いていた歌と一緒だったからな。 喜由は少しその言葉の意味を解釈するのに時間をかけた。そして、気づいた。 き、聞いていたのか!? 歌ってたのを!? ああ。 案内人は階段を、今度はゆっくりと下りて行く。 でも、口はここで、お前はあの時はあそこにいなかったじゃないか。 案内人は少し黙った。絶句していたのだが、喜由は気がつかなかった。 お前、ってホント、間抜けだな。じゃ、今迄どうやって会話していたと思うんだ? 喜由は小さく叫んだ。案内人の言わんとしている事を理解したのである。 じゃ、お前、ってすごい耳してるんだな。喜由は感心していった。 お前、まだ何か勘違いしているようだな。 へ? 誰がそんな化け物じみた耳をしてる、って言ったんだ? 俺はお前の眼を通してお前の言葉を聞いてるんだ。 へ? そして、俺はお前の思考に直接話しかける。案内人はそれが可能なんだ。 へえ。喜由は感心して息をついた。 ま、早々に耳を手に入れりゃ、こんな一対一の対話なんてせずにすむんだがな。 おい。それじゃ、俺は別に声を出さなくても、俺がお前に対して何か言葉を心の中で投げかけたらそれでそれはお前に伝わるのか? 判るな。 案内人は外に出た。空は真っ黒だった。しかし、闇ではなかった。黒い光があたりに満ちていた。 何も見えないじゃないか。喜由は文句を言った。 お前は鳥目か。案内人は歩き始めた。 お前は、ちゃんと景色が見えているのか? ああ。 案内人、ってのは闇の中でも物が見えるのか? 喜由は感心したように言った。 他の奴等もそうだろう。お前が特別なんだ。案内人は素っ気なかった。喜由は何か言い返そうと思ったが言葉が見つからなかったので何も言えなかった。 黒い光に満ちた世界を案内人は行くあてもなく歩いていた。 突然、人間が案内人の前に現れた。喜由は驚いて短く叫んだ。案内人は別に動じなかった。その人間は少年で、泣いていた。そして、何かを叫ぶと案内人の肩から喜由の腕を取って走り出した。 お、俺の手! 案内人!! 喜由は悲痛な叫び声をあげた。 うるさい。判ってる。案内人は走り出した。 その人間は速かった。案内人は舌打ちした事を喜由は知らなかった。 人間は森に入った。雑木がうっそうと茂り、視界が利かない。 俺の手、俺の右手を返してくれ! 喜由は叫んだ。大きな声だから、きっと向こうにも聞こえた筈だ、と思った。 おしゃべりな左手を奪われたんじゃなくてよかったな。案内人は前後左右に絶え間なく頭を動かしながら伝えた。 左手を取られたほうがまだましだ。奴に口がきけるんなら、なんとか説得して手を元に戻してもらえるかもしれないじゃないか。 案内人は冷笑を浮かべたがそれは喜由には見えなかった。 口をふさがれちゃおしまいだ。ま、俺としてはうるさいのがいなくなって嬉しい、ってとこだがな。 喜由はなんて奴だ、と思った。 お? 喜由は声をあげた。 何だ。案内人は喜由の右手を奪った人間がいると思われる方向へそっと歩き出した。 握手された。喜由は少し楽しそうに言った。 案内人は黙っていた。握手した方にも、握手し返した方にも呆れていた。 木々が揺れている。 今度は頬ずりされたぞ。害意はないみたいだ。 それなら放っておくか。あいつは手が欲しかったんだろう。 案内人はきびすを返して今度は物音を立てて歩き出した。背後で人間が去ってゆく音がした。 「お、おい! 誰が放ってくれ、って言った! 頼む! あれは俺の大切な右手なんだ!」喜由は哀願の口調で叫んだ。 案内人は立ち止まった。そして、おもむろに座り込んだ。 「ど、どうした?」 ここは風が強すぎる。案内人は空を見た。今度は銀色に輝いていた。 「あれ?」 どうした。 「俺の声がした。今迄風の音ばっかりだったんだが」 何? 案内人は機敏に立ちあがった。 「何処だ? 何処にあるんだ?」 喜由の左手は口をつけたままあちこち向きながら声を出した。 よし。俺が適当に歩いてゆくからお前はだいたいの方向を指示しろ。 「判った」 案内人は早足で歩き始めた。案内人も喜由も新しい耳の事で頭が一杯になっていた。左腕の事は取り敢えず保留、となった。 全く他人のものとして聞く自分の声は少しばかり勝手の違ったものであった。 喜由は右手が地面に置かれるのを感じた。しかし、それは乱暴な置き方ではなかったし、何よりも耳の方が大事な時だったので案内人には何も言わなかった。 「あった!」 喜由は叫んだ。木に耳が二つ並んでついていた。 「これで心話はおしまいだな」 案内人は言った。喜由が初めて聞く案内人の声であった。余り抑揚のない喋り方であるがシンが通っていてよく響いた。 「お前、って案外いい声してるんだな」 喜由がはしゃいで言った。自分の意思下で音声が聞けるという事が嬉しくて仕方がないのだ。 「あんまり騒ぐな。早々に体を完成させて欲しいと思うんならな」 案内人は面白くもなさそうにいった。言葉の内容は殆ど一緒だけれど、やはり心話よりは生の声を聞いている方がいいな、と喜由は案内人のきつい言葉も気にならなかった。 案内人は喜由の耳をとったものの、そのつけ場所に困った。 「さっさと体が見つかればいいものを」 不満げに案内人は呟いた。喜由はそんな案内人の様子に、また楽しさを感じた。 「仕方ねえな。お前が自分で保管してろ」 案内人は喜由の二つの耳を左手の甲に並べてつけた。 「グロテスクだ。喋ると耳がガンガンする」 喜由は左手を何回もひっくり返して言った。 「そりゃあいい。ずっと黙ってろ」 案内人はそう言って歩き始めた。 言われて仕方なく喜由は黙っていたが何かを喋りたくて心がうずうずしていた。 相手が声を聞きつけて逃げる、ってのもかなわんからな。喋りたけりゃ心話しろ。案内人はそう伝えた。 奴が何処にいるのか判るのか? 喜由は訊ねた。 ある程度はな。案内人は物音を立てないよう、用心深く歩いていた。 何だって右手を取っていったんだろう。 俺が知るか。黙ってろ。お前が喋ると俺の注意力が散漫になる。案内人は少し苛立っているようだった。 喜由は仕方なしに案内人に語り掛けるのをやめた。頭の中でうだうだと思考をこねくり回していたが、それは案内人にとっては全く預かり知らぬところであった。 声が聞こえてきた。 案内人はそちらの方へ歩いて行った。 その声は時々しゃくりあげる涙声であった。 泣いているのか? 耐え切れずに喜由は訊いた。 そうだな。すんなりと案内人は答えた。 次第に声が大きくなる。感情に全てをまかせた訳の判らない理解不可能なわめきや呟きであった。 姿が見える。人間は地面に置かれた喜由の右手に絶え間なく話しかけていた。 お前は黙ってろよ。お前が口を挟むと絶対話がややこしくなるからな。案内人は先に釘をさした。 喜由はふてくされたが肯定するほかなかった。 案内人は喜由の左手を肩からはずし、襟元から服の中に突っ込み、耳と口のついた手を少し出しておいた。 いいか。右手を取り返しても左手が亦取られたらお笑いだからな。しっかり服を掴んで絶対放すなよ。口がふさがるだなんて文句を言ったら、さっさと仕事を放棄するからな。 判った。案内人の有無を言わせぬ調子に喜由は短く答えるしかなかった。 風にさらされた状態から服の中、更に案内人の体温で左手はやけに温かかった。案内人の胸は呼吸で動き、わずかに心音が感じられた。 力づくで行くからな。案内人はそう伝え、音を立てずに人間の斜め後方に回り、木の陰に隠れて暫く相手が自分に気づいているか否か確認した。 喜由は何も力づくでなくても、と思ったが、それを案内人に伝えても亦苛立った思いが返ってくるだけだと諦め、何も伝えなかった。 行くぞ。服を放すなよ。 案内人は走り出した。人間が音に気づき、驚いて振返る。しかし、その反応は遅かった。案内人は地面に落ちていた右手を掴み、続けて走った。 しかし、人間は跳躍し、案内人の足を掴み、腕で抱いた。 「駄目、駄目! 聞いて! 僕の話を聞いて! 何もしない! 僕は悪くない! 悪意はないんだよう!」 人間は叫んだ。案内人は人一人足につけたまま走るのもそう楽な事ではないので立ち止まった。 「放せ」 案内人は低い声で言った。強い口調であった。 「僕の話を聞いてくれる?」 人間は哀願するような眼、表情、口調であった。 「放せ」 案内人は冷たく言った。 「そんなに冷たくあしらわなくったっていいだろ?」 喜由がモゴモゴと言った。服が口をふさぐ形となるのでそのような話し方しかできないのだ。 「お前は黙ってろ、と伝えただろうが」 案内人は相変わらず冷たく言い放った。 「お願い、聞いて! 聞いてくれなきゃ僕は死んじゃう! お願い! 聞いてくれるんなら僕は何もしないよ! お願いだ!」 「少しぐらい聞いてやってもいいだろ?」 喜由も人間に同情する。人間の眼に希望がわずかに輝いた。 「聞く価値なんてない。他人によっかかろうとする奴は嫌いなんだ。泣きゃあいいと思ってるんだ。何のかんの言って、結局どうしようもない事に気づいて消えるのがオチなんだ」 抑揚のない、しかしわずかに苛立たしさを感じさせる口調であった。 喜由は案内人に腹を立てた。 「何もそんなに冷たく言う事はないだろう!? 少しぐらいなら話を聞いてやってもいいだろうが。俺の体が少しぐらいできるのが遅れたって、俺は構いはしない」 喜由はついに怒って言った。人間は泣き止んでいた。案内人は黙っていた。喜由には知る由もなかったが案内人の表情は険しかった。 「俺は、お前に言った筈だ。俺を怒らせるな、と。俺には義務を捨てる権利もある、って事を」 案内人はそう言って黙った。人間は案内人の険悪の波長に思わず怯え始めた。 喜由は謝れば許してもらえるか、と一瞬考えた。しかし、意地を張って折れなかった。 「それがお前の答えか」 案内人は言った。人間は震えていた。 「そんなにこいつと話していたいなら話してろよ。永遠にな。こいつは愚痴しか言わねえぜ。お前がこいつが好き、っていうんなら結構な事だがな」 突然、案内人は懐の左手を剥ぎ取り、地面に落とした。右手も落とした。抵抗のしようもなかった。 眼も捨てた。 「殺されたくなけりゃ、手を放す事だな」 案内人の言葉に人間は怯えて手を放した。案内人は人間と喜由に背を向けた。 「あばよ」 案内人は去って行った。 |