状態方程式 (3)
三.顔と歌 眼が四つ、腕が四本の案内人は別段何事にも動じずに一定のリズムで歩いていた。 空はだんだん青くなり、青紫になっていた。その空を銀色のジェット機が飛んでいた。 突然、案内人は立ち止まり、何者からか隠れるように電信柱の影に身を潜めた。 どうした? 喜由は驚いて案内人に訊ねた。 人喰いだ。案内人はかたい口調で答えた。喜由は案内人がいつになく緊張しているのに気づいて驚いた。喜由から見た案内人とは、最初に出会ったとりとめのないうつろな瞳であり、不当な義務にいらついた無愛想さでしかなかったからである。 人喰い? 鬼か? 喜由はのんびりした口調で言った。案内人の生身の人間くさい行動に少し楽しさすら感じていた。 まあ、鬼って言ってもいいだろう。分解した体なんかを好んで喰う、性悪でどうしようもねえ奴だよ。案内人は人喰いを嫌悪しているようであった。 案内人は電柱からそっと顔を出した。 喜由はそれを見て気分が悪くなった。胸がムカムカし嘔吐がこみ上げてきそうになる。 大きな口と丈夫そうな歯を持った人間が人の頭を食べている。顔も手もない体は、もう死んでいた。頭の半分ぐらいはもう食いちぎられて姿もなく、足は体は死人の色つきである。 人喰いは殆ど全身血まみれであるが気にする様子もなく、大きな口で頭にかぶりついていた。 死人も血だらけであるが死人はその事を気にする事はもちろんできない。 地面も血で染まっているがもちろん地面はそんな事は気にしない。 空は青くなってきた。深い青であった。 案内人は顔を引っ込めた。喜由はホッとして胸を撫で下ろそうとしたがその胸が案内人のものであった事に気がついたので溜息をつくだけにとどめておいた。 仕方がない。元に戻るか。案内人はそう伝え、行動に移しかけた。 あいつの横を通っちゃ駄目なのか? 喜由は言った。今来た道を戻るという事はその分自分の体探しが遅れるという事になる。 俺一人なら構わないんだが。お前も喰われたいか? さして感情の含まれない調子であった。 喰われる? 俺が? お前一人ならいい、ってどういう事だ? 案内人は黙った。それは溜息をつく間であったが、喜由はそれを知りようがなかった。 分解した体、ってのは、そうそうお目にかかれるもんじゃねえんだ。人喰いはなるべく楽をして人を喰いたい。判るだろ? 分解体ほど簡単に喰えるもんはないんだ。完全体は戦って殺してからでないと喰えない。だから奴等は分解体を好むんだ。 でも、お前がいるだろ? 案内人は亦暫く答えなかった。 俺はゴタゴタに巻き込まれたくないんだよ。お人よしの分解体の為に強暴な人喰いと戦う気もねえしな。案内人は人喰いと死体に背を向けて歩き始めた。 喜由は案内人を止めようと彼の腕を掴んだがそれは全く意味のない行動に終わった。 俺は何故お前がそう変なのか判らんな。案内人はそう付け加えた。 喜由は何と答えるべきか悩んだがその事に関しては無視して、話を人喰いに戻そうと決めた。 人喰いに喰われた人間はどうなるんだ? 人喰いに消化される。それだけだ。 あっさりと断言された喜由は絶句した。案内人は喜由のそんな反応に気づいていないように歩く。 他の器官はどうなるんだ? 腐っちまうか、運がよけりゃ小鬼達が埋葬してくれる。 空は徐々に黄色系統の色を混ぜていき、青緑になる。その空を黒い鳥が一羽で横切っていった。 案内人はけだるそうな、しかし速度は速い歩きで進んでいく。 喰われた奴もかわいそうだが、そいつの体を探している途中の案内人もたいがいかわいそうだぜ。案内人の言葉は突然だった。 え? 喜由は面食らう。一瞬、何の話をしているのか判らなかったのだ。 それまでの遂行すべき義務、ってのが突然消えちまうんだ。戸惑う。そして、案内人である事に疑問を抱く。仕方がないから人喰い狩りをする奴もいる。ま、たいていは人喰いを狩っちまう前に何か望むものを手にいれるらしいがな。 何か望むもの、って? やりたい事だ。 案内人でいつづける事もやりたい事の内に入るのか? そういう奴もいるかもな。 お前は? 俺はそうじゃない。 まだまだ訊きたい事はあるものの、案内人の沈黙が怒りを含んできた様相を呈してきたので喜由は黙るしかなかった。 空は突然白くなった。案内人は空を見上げた。喜由の視界一杯に白い空が広がった。 黄色い空、ってのはないのか? 喜由は訊ねた。 あったろう。そんなこと覚えてねえよ。案内人はぶっきらぼうに答えた。 白い空はまぶしかったので、喜由は手を上げて光を遮った。 黒い空になる事はあるのか? あるんじゃないか。 何も覚えてないのか。 覚える必要がないからだ。 喜由は何も言えなくなった。そして、そのまま自分の思考に沈み込んでいく。 案内人は何も伝えずに歩き出した。喜由はその必要がなくなったので手を下ろした。 交差点があった。手が落ちていて、小さな人間がそれを投げ合って相手に当てては笑っていた。 小鬼だ。案内人は苛ついているようであった。少し早足でその小鬼三人のところへ行く。 小鬼を突然蹴飛ばす。三人立て続けに、すばしっこそうな小鬼達が逃れる暇のないほどの速さであった。小鬼達は転んだ。分解された手二本が小鬼の手から離れて地面を転がる。案内人はそれを拾い上げて小鬼たちの方を見た。 小鬼達には先刻の楽しそうな表情は全くなかった。泣く顔と怒る顔と怯える顔。 案内人は小鬼を更に蹴った。 やめろ。かわいそうじゃないか。喜由は抗議した。 かわいそう。こいつ等が。分解体の方がよっぽどかわいそうだと俺は思うぜ。案内人は嘲った。 泣く子鬼と怯える小鬼は逃げた。残る小鬼は案内人の方に駆けて来た。 限度の知らない、自分の楽しみだけに生きる奴等に同情は必要ない。 喜由は一瞬、何が起きたのか全く判らなかった。めまぐるしく風景が周り、気がつくと小鬼が地面に倒れていた。 何をしたんだ? ちょっと投げただけだ。 小鬼は気絶していた。その手には大きなナイフが光っていた。 案内人はいつの間にか置いていた誰かの両手を持って歩き始めた。 小鬼は何もかも許されてるんだ。何もかも、な。殺人でさえ。俺はそんな奴等が嫌いなんだ。奴等の姿形だけ見てかわいいだの、かわいそうだのと言う奴もいるが、そういう奴等も俺は嫌いだ。 交差点そばに救急室があった。 机や椅子が無造作に並んでおり、人が数人いる。奥には洗い場があった。 案内人はその水道で汚れてしまった手を洗ってやる。 どうするつもりだ? 喜由は訊ねた。 案内人がついていればそいつに話す。いなけりゃどこかに捨てる。あっさりと答える。 話す、って……どうやって? 案内人はその問いには答えなかった。 ちょっと手をはずすぞ。許可を取るような呼びかけであったが喜由が答える前にもう両手ははずされていた。 喜由は自分の手が机の上にあるのを見て奇妙な気持ちになった。そして、先刻まで自分の手のあったところに他人の手が取り付けらる。 喜由は何もする事がなかった。恐らく、両手の主には案内人がついていたのだろう。案内人はじっと一点を見て全く顔を動かさなかった。そのため、喜由は視界からは何ら新鮮な楽しみを得ることはなかった。 仕方がないので他の部分を動かした。しかし、走るのは失敗であった。眼がこちらにあるので向こうでは何も見えず、何かにつまずいてこけたのである。そして、更に悪い事には立とうにも腕がない。いくら机の上にある手が地を押そうとしても立ちあがれないのである。 喜由は諦めた。諦めて今度は歌を歌い出した。やけのやんぱちである。いくら案内人に聞こえてもいい、と思った。この歌が元で案内人が自分の相手をしてくれれば幸いである。 おい。案内人が喜由に呼びかけた。 何だ? 喜由は大きな態度で答えた。 お前、今、歌を歌ってた、な? 何故か、案内人は喜んでいるようであった。 あ、ああ。それがどうした。やや動揺してはいるものの、開き直った様子で答える。 よし。お前の口が見つかった。でかしたぞ。案内人は立ちあがって喜由の手を持った。 驚いたのは喜由である。 口が見つかった、って。口が見つかった、って。ただ呆けてこう繰り返した。 向こうの案内人がお前の下手な歌を聞きつけたんだそうだ。 案内人は喜んで走り出していた。しかし、喜由は案内人の言葉が引っかかって素直に喜べなかった。 わざわざ下手な、という形容詞をつけなくてもいいだろうに。しかし、言っても無駄な抵抗だろう、と喜由は諦めた。 案内人は走っていた。 どうして走るんだ? 慌てる必要はないんだろ? 走ってもらって嬉しいとは思うのだが、予想外の案内人の行動に驚いて訊ねた。 俺はお前とはさっさとおさらばしたくて仕方がねえんだ。案内人は無愛想に答えた。 案内人はかなり速いスピードでずっと走っていた。案内人は喜由の手を持っていたのでバランスをとりにくかったのだが他人の手がその体の揺れに合わせて前後に腕降りをしていた。 重厚な体からは想像もできない軽い走りであった。 何かスポーツをしていたのか? 体を使っていないので別に疲れる事もない喜由はのんびりと訊ねた。 覚えてねえな。案内人の答えは無愛想であった。喜由はしょぼんとし、諦めて上下左右にわずかに揺れる風景をただ眺めていた。 庭木が見えて後ろに去ってゆく。ビルが林立する横を通り過ぎる。人々も時々通り過ぎる。喜由自身は全く動いていないので、まるで世界が、静止している自分に向かってやって来ては去り、上下左右に揺れているようであった。 案内人は一つのビルに入った。階段を駆け上がる。 何処へ行くんだ? 屋上だ。 そのビルは五階建てであった。 白い光の満ちた屋上であった。そこに人間と手と鼻のない人間がいた。喜由は驚いてあっ、と小さく声をあげてしまった。 向こうの案内人が何かを言った。喜由はその言葉を聞く事はできなかった。 案内人は喜由の手を地面に置き、他人の腕を取り、それを向こうの案内人に渡し、喜由の腕を肩につけ、立ちあがった。 向こうの案内人が笑って何か言って、その腕を肩につけてやった。鼻のない人間は笑って喜び万歳をした。喜由はその人間をうらやましく思った。 向こうの案内人は笑って屋上の隅の方を指差した。 喜由はその案内人の陽気で気のよさそうな人柄に驚いた。こちらの無愛想な案内人とはえらい違いだ。どうせなら俺もこんな案内人について欲しかった。こんな案内人なら旅も楽しいだろうに。 案内人は向こうの案内人が指差した方に歩き出した。 屋上の隅にそれはあった。 喜由の口と鼻だった。 |