状態方程式 (2)

状態方程式3
 トップ 創作世界 状態方程式1

    二.手と踊り

 案内人は相変わらず落ち着いた様子で歩いていた。
 喜由は案内人の表情を見る事はできないが眼に移る景色の揺れが安定してゆっくりである事からそれはうかがえた。
 俺の眼は何処にあるんだ? 余りに暇であったので喜由は訊ねた。
 俺の眼の下だ。案内人は無愛想に答えた。
 じゃ、眼が四つだ。喜由は少し面白そうに言った。眼が四つある人間の顔を想像したのだ。
 ああ。四つだ。それがどうした、と言わんばかりに案内人は答えた。
 どうやってひっついてるんだ? ひるまずに喜由は訊ねた。
 知らん。両面テープでもついてるんだろう。案内人は面白くもなさそうに答えた。
 喜由は黙り、そして少し悩んだ。今のは冗談なのだろうか? それとも本気なのだろうか。こんな無骨な案内人が冗談を言うなどとは到底信じられない。しかし、冗談ならば笑うのが礼儀であろう。しかし、もし案内人が本気で言った事を笑ったりなどしたら、この案内人の事だから、何をされるか判ったもんじゃない。
 喜由は暫く悩み、案内人自身が自分が伝えた事などすっかり忘れているなど気がつかなかった。
 喜由の思考は肉体的痛みによって中断された。
 痛ッ!
 どうした?
 判らん。判らんが……今、手が――痛ッ!
 小鬼か。
 小鬼? なんだ、それは。
 分解した体をいじめて楽しむろくでもなしの集団だ。奴等は体から全体の体を見る事ができる、っていう奇妙で厄介な能力を持ってる。
 じゃ、案内人の知り合いか何かか?
 あんな奴等と俺を一緒にするな。俺はあいつ等は嫌いなんだ。
 お前は嫌いな奴が多いんだな。
 その方が人生楽しい、ってもんだ。
 喜由は案内人のその言葉に反論しようとしたが全く思考の違う人間にそのようなことを言ったとて仕方がなかろう、と思って何も言わなかった。
 まだ痛むか? 案内人が問いかける。
 いや。もう、大丈夫みたいだ。喜由は少し驚いて答えた。案内人が自分の身を案じている事をほのめかすような言葉を初めて聞いたからである。
 じゃ、小鬼じゃないな。小鬼はしつこいからな。
 俺の手は何処にあるんだろう?
 俺が知るか。ぶっきらぼうに案内人は答える。
 喜由は案内人が再び心を閉ざしたのかと思い、がっかりした。
 ふと、案内人は立ち止まり、空を見た。
 色がついてきた。喜由は言った。
 真っ白だった空が、ほんのりと朱色に染まっている。
 空が落ちてきているんだ。案内人は何気なく答えた。
 空が……落ちる? 喜由は非常識な答えに戸惑った声を出さざるをえなかった。
 そうだ。
 何故? 空は宇宙なんだろ? 下にも空はあるのに、どうして空が落ちて来るんだ? 地球は回ってるんだろ?
 難しい事を俺に聞くんじゃない。俺は知ってる事はできるだけお前に教えてやる。けれど、知らん事は教えてやれん。そういう事だ。
 どうして空が落ちてる、って事を知ってるんだ?
 池の魚に聞いたんだ。
 喜由は案内人の言葉の意味がよく判らずに悩んだ。
 案内人はずっと歩きつづけていた。時々鳥が飛んでいた。
 喜由は案内人が何か説明を加えて混乱を解消してくれる事を望んだが、案内人は何も言わずにただ歩いていた。
 池の魚は、喋るのか? こちらが問いかけなくては答えてくれない事を理解してして喜由は言った。
 喋らなくても判る。案内人は無愛想に言った。
 本当に空は落ちているんだろうか?
 案内人はすぐには答えずに再び立ち止まって空を見た。空はだんだんその色を濃くしていった。
 落ちてるんだろう。お前がそう思いたくないのなら思わなきゃいい。案内人は素っ気なく答えた。
 お前は落ちてると思うのか?
 そう思った方が楽しいだろ。
 案内人は再び歩き始めた。喜由はいろいろ訊ねて疑問を少なくしていきたかったのだが、案内人が歩き始めてしまったことによって、時期を逸してしまったような気がして何も言えなかった。
 亦、手が何者かに踏まれたような痛みが来た。小さな声をあげる。
 俺の手が何処にあるのか判らないのか。怒るとも哀願しているともつかない口調で言った。
 判らん。お前こそ自分の手の場所ぐらい判らんのか。
 知るか。お前が案内人だろうが。案内人の意味を知ってるのか? 案内する人、って意味だぞ? 案内をすべき人間が案内もせず、ただ行き当たりばったりに歩いてるだけで案内人と言えるのか?
 案内人は黙っていた。喜由も黙ってしまった。喜由は案内人にやつあたりした事を後悔し始めていた。
 どうやらお前は俺を怒らせたいようだな。案内人は怒っているようであった。
 喜由は黙っていた。
 お前は自分の体がどういう状態にあるのか判らないで苛々している。その気持ちも少しは判る。人間、訳が判らなくなるとやけっぱちになるもんだ。けどな、この世で不幸なのは自分一人だと思うなよ。俺だって他人の体を理由もなしに組み立ててやらなきゃいけない、って義務を背負ってる分、不幸なんだ。体が分解したのもお前だけじゃない。小鬼にいたずらされるだけならいい。人食いに体を食われっちまった奴だっているもんだ。もし、本気で自分の体を完成させて欲しいと思うなら、俺を怒らせるな。
 判ってるか。俺の方が優位に立ってるんだ。俺がお前の体を探すのは俺にとっては義務だが、俺はその義務を遂行する権利も、遂行しない権利も持ってるんだ。俺が案内人である事はどうしようもない事実だが、俺はその事実を全く無視して新しい人間になる事もできるんだ。その事を忘れるなよ。
 喜由は返事をしなかった。案内人があまりにたくさんの事を喋ったので呆気に取られた事もあり、どのような返事をすべきか判らなかった、という事もあった。
 案内人は別に念を押すような事はしなかった。
 空はだんだん紅に染まってゆく。
 空が落ちきったらどうなるのだろう。喜由は地平線の紅の空を見て言った。無難な話題転換を求めた結果の言葉である。
 世界が終わるんだろう。案内人は答えた。先刻の怒った様子はない。平静で無愛想な、いつもの案内人であった。喜由は少しホッとした。
 湖があった。紅の空を移した紅色の湖面が風もないのに揺れている。
 風もないのに湖面が揺れている。喜由が不思議そうに言った。
 エネルギーが湖面に流れてるか、中でかっぱが遊んでるかしているんだろう。案内人は湖を見乍ら答えた。
 湖岸沿いの道はよく舗装されていたので時々サイクリング集団が笑い乍ら去っていった。
 のどかな風景に、喜由は、もし五体満足で、そんな紅色の空の下でなければ、ここは最高の散歩道なのに、ど残念に思った。
 ふと、案内人は音と声を聞きつけた。もちろん、喜由にそれを聞く術もない。聴覚は風の音に対して殆ど麻痺しており、無音であるかのように思われた。
 太鼓や鐘の音。そして人々の声。そういうものを案内人は聞きつけた。
 祭りだ。案内人は面白くもなさそうに伝えた。
 祭り? 喜由は不思議そうに言った。
 祭りを知らないのか。
 いや。知っているが……こんな所で祭りをするのか?
 何もしたくない人間がいるように、祭りをしたい人間もいる、って事だ。案内人はなんなく答えた。
 案内人は祭りの方をちらりと見て、再び歩こうとした。
 祭りを見に行かないのか。喜由は言った。残念そうだった。
 行くのか。さっさとこの場を立ち去るのが当然であろうと伝えたげな響きであった。
 俺はできるだけこの世の事を知りたい。俺はこの世の事に関しては何も知らない。だから、知りたいんだ。喜由は言い乍ら自分の言葉に納得した。訳の判らない世界において、自分が何者であるかを知るためにはこの世界を知らなくてはいけない。それは理論的な考えであるように思えた。
 ようするにお前は好奇心に満ち満ちた奴だ、って事だ。
 喜由は少し驚いた。表情が見えないのでよく判らないがいつもなら見え隠れしている言葉の裏のトゲがなくなってしまっているような気がしたのだ。
 しかし、喜由は思った事を案内人に言わなかった。そして、案内人もそれ以上何も言わなかった。
 案内人は祭りの方へ行く。
 亦もや交差点であった。牛が横断しようとしているのだが人が多くて渡れずうずうずしている。しかし、そのうずうずするリズムが鐘や太鼓の音と合っているので牛も踊っているように見えた。
 祭りといっても人は鐘や太鼓を叩いて踊っているだけでおみこしなどはないようであった。
 何の祭りだろう? 喜由は案内人に訊ねた。
 祭りというよりは踊りだろうな。こいつ等も先刻の奴等と一緒だ。ただ、踊りたいから踊ってる。理由も原因もねえ。案内人は答えた。
 二人は暫く沈黙して踊りを見ていた。牛は既に交差点を渡ることを諦め、牛飼いと共に踊っていた。
 案内人と喜由の見ている方向は一緒であったが見ている先は異なっていた。
 手が落ちてる。案内人が伝えた。
 え? 喜由は驚いて地表に視線を這わせた。
 確かに、手はあった。二本、無造作に落ちている。
 あれは誰の手だろう。案内人は無感動だった。
 俺の手だ! 俺の手だ! 俺の意思通りに動く! 喜由は興奮して叫んだ。
 ようやく手の発見か。案内人は面白くもなさそうに鐘や太鼓の音に合わせて人ごみの中に入った。
 踊ってる人々は目を四つつけた案内人の存在など気にしなかった。案内人はすっと身を沈めて手を二本取った。そして、人ゴミを抜けた。
 かなり踏まれたな。案内人は足形のついた腕を見て伝えた。
 踊るにしてもちゃんと足元に気をつけろ。喜由は明らかに怒っていた。
 ま、何にしろ、手がちゃんと見つかっただけでもましだな。
 案内人は喜由の二本の腕を肩につけた。
 重くないのか? 喜由は訊ねた。
 手だけで眼をつけてお前が進んで行ってくれる、っていうんなら、俺は大喜びだぜ。案内人は面白くもなさそうに答えた。
 空は赤紫になっていた。
 案内人は空を見上げた。
 二人羽織、って知ってるか? 喜由は面白そうに言って案内人の顔をペタペタと触った。
 俺の手だ、俺の手だ、俺の手だ! 万歳をしたり、動かしたり、じっと手を見たりする。
 人の体を借りてる分際でバタバタするな。案内人は不機嫌だった。
 喜由は黙って手を下ろした。
 空はだんだん青系色の色彩を増していき、今では真紫の光を放っていた。その空を白い鳥が群れをなして飛んでいった。
 いつになったら俺は自分の体で自分を確認する事ができるようになるんだろう。喜由は去っていく白い鳥達を見て言った。
 早けりゃ有難いがな。案内人は無愛想に言った。
 そういやお前の名前、聞いてなかったな。俺は工藤喜由だ。お前は?
 案内人は暫く黙っていたが歩き出し、ぶっきらぼうに答えた。
 さあてな。俺はただの案内人だ。

続きを読む
トップへもどる
創作世界へ戻る
状態方程式1へ戻る