状態方程式 (1)
一.眼と案内人 風の音がしている。時々ムギュッと手を踏まれたりもする。 喜由はたまらなくなって眼を開けた。 森が見え、ビルが見え、真っ白な空が見えた。それらの風景はぐるぐる回っていたが何故か眼は回らなかった。喜由はくるくると回る風景の中でフードをかぶった老人が近くにいるのに気付いた。喜由は一体自分は何をしているのだろうと思った。相変わらず激しい風の音。 ふと、風景が止まった。喜由は地面から全てを見上げているような形となった。 事態がつかめず、喜由はポリポリと空を掻いた。声を出した。しかし声は聞こえず、ただ、風の音がするだけだった。 ぐるぐる回る風景の中に、案内人がやってきたのが判った。 重厚な体つきの、少しけだるい歩き方をする青年であった。 案内人がフードの老人に向かって何か言った。しかし、喜由の耳に聞こえるのは、相も変わらず風の音だけであった。 フードの老人も何か言い返したようであった。 案内人は喜由を見て指さした。フードの老人は喜由に手を伸ばした。目前にせまる手に対して喜由は生理的恐怖を感じて、何をする! と叫び乍ら手を伸ばし、老人につかみかかろうとした。 口も動かし、喜由の体は地を蹴った。筈だった。 しかし、叫んだ声は自分の耳には届かず、視野も変わらなかった。 一瞬、眼の前が真暗になった。老人の手に視界がさえぎられたのである。 次の瞬間、喜由は案内人と視線をあわせた。取り留めのない、どこかうつろな眼であった。 風景が動く。喜由自身の体は動いていない。 案内人は歩きだす。喜由自身は歩いていないのに視野は喜由が歩行の状態である事を示している。喜由の視点は案内人の視点とはぼ同じであった。 喜由は混乱し、説明を欲した。一体どうなったんだ! と叫んだ。 分解しちまったのさ、と案内人は喜由に伝えた。言ったのではなかった。喜由の耳は相変わらず風の音しか聞こえていなかった。 分解? 喜由は呟くように言った。案内人の言葉が何処から伝わってくるかなど喜由は気にしなかった。ただ、このちぐはぐな事態の原因を知りたかったのである。 ああ。分解。バラバラになったんだ。体が。 体が……? それじゃ、どうやって俺は生きてるんだ? 俺が知るか。案内人は無愛想に答えた。その答え方が少し怒っているように思えて喜由は少しの間黙っていた。 案内人は黙っていた。喜由は分解した自分の体について少し考えた。 これは眼≠ゥ。喜由はついに黙っていられなくなって言った。 そうだ。眼が二つ。案内人は今度は怒っている様子はなかった。相手の表情が見えないのは不便だな、と喜由はそっと思った。 何処へ行くんだ? お前の体を探しに行くんだ。 俺の体を? 何故? 俺は案内人だからだ。 案内人なのは判っているが……一体どうして案内人をしてるんだ? 今迄にも他の人間の体を探したことはあるのか? ない。案内人が案内人であることに理由などない。俺は知らん。自分で考えろ。 考えても判らないから訊いてるんじゃねえか。お前こそ、少しは考えろ。 俺は今すぐに責任を放棄してここでこの眼を捨てて逃げてもいいんだ。案内人は苛立たしげであった。喜由は黙った。他人の助けなしで自分の体を組み立てる自信など全くない。 すまない。訳が判らんで苛々してるんだ。喜由は折れた。 まあ、いいさ。俺だってかなり訳が判らないんだ。ま、二人してぼちぼち歩いていこう。案内人はねぎらいように伝えた。 案内人は止まる事を知らなかった。ずっと歩いていく。 何処へ行くんだ? 喜由はさっきも訊いたな、と思い乍ら言った。 さっき教えてやったろ。お前の体を探しに行くんだよ。 俺が訊いているのは具体的な場所の事だ。俺の体が何処にあるのか知っているのか? そんな事知ってる訳ねえだろ。行き当たりばったり、勘まかせだ。 間に合うのか? そんな事で。 間に合う? 一体何に間に合わすんだ。一体どんな時間がここにある、って言うんだ。 ここには時間はないのか。 欲しけりゃいくらでもくれてやるよ。そこいらのゴミ箱に落ちてるだろ。 ゴミ箱? 視線が動き、大きな「ゴミ箱」と書かれた黄色い箱が見えた。 案内人はそれに近づき、ふたを開けた。 大きな砂時計が笑って話しかけてきたようだった。喜由は砂時計が何を話しているのか興味を示したが、いくら耳を澄ませても聞こえてくるのはやはり風音だけであった。 さて、お前はこの胸糞悪い時間が欲しいのか? 砂時計は必死に喋り続けていた。砂時計はゴミ箱の中でずっと待っていたのだ。誰かが拾ってくれるのを。それこそ、無限の時間の中で。 お前が要らないなら俺もいらん。こいつの管理は、体のない俺にはできない事だからな。 案内人はふたを閉めた。それが返事であった。砂時計はゴミ箱の中で悲痛な叫び声をあげた。しかし、喜由がその叫びを聞こう筈もなく、案内人がその叫びに心を動かされる筈もなかった。 案内人は歩き始めた。 時間なんて、いらねえんだよ。案内人はそう伝えた。そして、黙った。 案内人は交差点に来て、止まった。車はなかったが人がいた。人々が立って空を見ていた。幾人もの人が何をするでもなく口をあけて空を見上げている。異様な風景に喜由は少し気分を悪くした。 あの連中は一体何をしているんだ? 持ち前の好奇心と気分転換の為に喜由は言った。 何もしていない。案内人はごくあっさりと答えた。 何もしていない? そう。何もしていないんだよ。何もする必要はないし、する気がない。だから何もしていない。理論的だろ? 理論的、って……何で何もする必要はないし、する気もないんだ? 本人達がそう思ってるんだからそうなんだ。だから何もしてない、って息をしてるじゃないか、立ってるじゃないか、なんてバカ言っても受け付けないぜ。 喜由はずっとその奇妙な人間達を見ていたいと思った。自分にはない意識を持った人間達に興味を抱いたのである。 しかし、案内人は顔をそらし、歩き出したので喜由のささやかな願望は打ち砕かれた。 もう行くのか。少し不満げに喜由は言った。 行かないのか。案内人は立ち止まって言った。そう言われると喜由は行かなくてはいけないような気持ちになった。 時間があるのなら、少しぐらいここにいたっていいだろう。取り敢えず、喜由は言った。止まって欲しいようなそぶりを見せたことから、その意見を押し通さなくてはいけないような気がしたのだ。 俺はあの連中が嫌いなんだ。案内人は吐き捨てるように答えた。 どうしてだ。 人の気持ちに理由をつけたがるなんて悪趣味な奴も俺は嫌いだ。案内人はきっぱりと答えた。 それなら、何故俺の体を元に戻してくるんだ? 知るかよ。眼を選ぶ時にお前の眼と視線があっちまったんだから、仕方がねえだろ。案内人はぶっきらぼうに答えた。少し苛立たしげにも思えた。 俺の体ができたら一体どうなるんだろう? 喜由は呟いた。 さあてな。そこまで俺は責任を持たんからな。俺は義務を果たしてお前とおさらばできて万万歳、ってわけだ。 義務? お前が俺の体を探してくれるのは義務なのか? 好意だとでも思っていたのか。案内人は分解していたやつの体を探してやるのが義務だ。それぐらいの常識は、いくらお前でも持ち合わせているだろう。 喜由はどう答えたものか少し悩んだ。 案内人は別に答えを催促する訳でもなく歩いた。 人達は既にはるか後方にいた。信号が白く光っていた。車はなかったが三輪車が何もしていない人々をよけたり突き飛ばしたりし乍らラッパを鳴らして走っていた。人力車が衝突事故を起こし、飛行機が低空飛行をしていた。 しかし、案内人は振り向かなかった。それらの音を聞きつけても、何の反応も示さずただ歩いていた。何もしていない人々がどうなろうと、案内人は全く気にする必要はなかったし、気にする気もなかった。 そして、案内人が振り向かないという事は、喜由はそれらを見る事ができなかった、という事でもある。案内人と共有しうるのはただ視覚だけである喜由にはラッパの音、衝突音、飛行機の音など聞ける筈もなかった。 喜由は、ただ、風の音だけを聞いていた。 |