夢より大きい 2

夢より大きい3 創作世界 トップ


 いつものように、朝が来る。そこそこに込んだ電車に乗り、かしましい朝の更衣室で適当に会話を交わしながら、制服に着替える。いつもよりぼんやりしていることを指摘されて、足が冷えてて眠れなかったからとか何とか適当に答える。
 そう。昨日はなかなか眠れなかった。
 別に、足が冷えて、とかそんな訳じゃない。
 結局、うーさんとは、あのあと食事して、それですぐ別れた。いつもみたいに、うーさんはゆっくりと頭を下げて、私は手を振って。
 料金は割り勘で、店を出てすぐ別れて−−送ってもらったりしなかった。
 今までなら、そんな人とはつき合おうなんて、思わなかったろう。
 おごってくれたり、送ってくれたりするのは男としての基本的なところで、こんな事ぐらいクリアーできてなきゃ幻滅−−と、思ってた。
 職場である百貨店に入る。朝のミーティングを済ませ、開店に備える。所詮「日曜百貨店」(日曜にしか利用されない百貨店。ベッドタウンだから自ずとそうなってしまう)だから、開店と同時にお客さんがわんさとやって来ることはない。
 −−でも、それならうーさんは一体なんだろう。
 むしろ、割り勘でほっ、としてる。送ってもらったりしてもらわなくて、胸をなで下ろしている。
 これ以上、借りを作りたくないのかしら。
 本当は、私はうーさんを好きじゃないのかしら。ただ、「特別な人」っていう事だけで−−でも、「特別」って、「特別に好き」って言う意味じゃないの?
 私にとって、あの人、って何なの?
 そして−−うーさんにとっての私、って?
「いらっしゃいませー」
 開店と同時に入ってくるお客様に明るく声をかけてお辞儀する。大抵のお客様は無視する(当然ね)けど、時々お茶目な人がいて「おはようございます」だの「どうもどうも」とお辞儀を返してくれたりする。
 食事に誘うのだって、絶対に断られると思った。承諾されて、何だか禁を犯されたような、すまないような気持ちになった。
 何で?
 −−今の、私のうーさんに対する気持ちを支えているのは、あの、たった一度の笑顔の想い出だけだわ。
 こんな、今の私が浮かべているような、仮面の笑顔じゃない。本人が意識せずして「それっ!」とこぼれてしまった、本当の笑顔。
 何でも優しく聞いてくれて、決して怒ったりしないうーさんだけど、私、うーさんの笑顔、その時しか見たことないのよ。
 本人に責任はない。判ってる。意識してやってるんじゃないから。
 −−子供の頃からそうだったのかしら?
 ……でも、弟さんは嬉しそうな顔してたわ。うーさんの顔で、嬉しそうな顔してたわ。双子の弟の方が笑えるのに、兄は笑えない、って、ある?
 うーさんの、笑顔を見て、私は初めてうーさんを好きになった。それまでは、信頼や信用はあっても「好き」とまで言えるものはなかったような気がする。
 それじゃ、うーさんの弟の笑顔を見て、弟さんを好きになるかしら?
 ならない。
 きっと。−−否。絶対。
 何故、そこまではっきりと断定できるのかはよく判らないけれど。


 「−−!」
 うーさんから弟さんの話を聞いてからちょうど一週間後。軟波の地下街でうーさんと同じ顔の人を見つけた。案内板を一生懸命見ている。
 −−ちょっと待て。どうやって声かけんの。私、うーさんの本名知らないのよ。……ま、なんとかなるか。
「うーさん、どうしたの? こんなところで会うなんて。お店はいいの?」
 なるべく自然に声をかける。弟さんは変な顔をする(まあ、見ず知らずの人間に声をかけられたら当然こういう顔するでしょう)。
「−−うーさん?」
「……うーさん、って……岡村卯吉ですか?」
 ……。
「うーさん、じゃない……もしかして、弟さん? 双子の」
「!? 僕のこと、知ってるんですか!?」
 私は心底驚いたぞ! という表情で弟さん(いや、岡村さんと呼ぼう。この呼び方はあまりにも情けない)が私の肩をつかむ。ちょっと怖いよ。
「いえ……ちょっとうーさんに聞いただけで……」
「兄は何処にいるんですか?」
「−−え、あ、じゃあ、案内しますから、すみませんが手を放してくれませんか?」
 勢いにとまどいながらそう言うと、岡村さんははっと我に返って、すみませんと言いながら手を放してくれた。
 −−うーさんの声で叫ばれたり、うーさんの顔で喜怒哀楽されると……何か変。
「やっぱり軟波にいたんですか……」
「一つ裏の筋で骨董屋をしています」
「あの、あなたは……」
「あ、私は植下麻衣といいます。うーさんのお店の客−−です」
 客と言うにはちょっと抵抗があるかな。用もなく行ってるのが殆どだし。
「……僕は岡村俊介と言います。……植下さんは、兄に、僕の事とか兄自身の事で何か聞いていますか?」
「いえ」
 何故か、胸を張って応えてしまう。
「岡村さんのことも−−一度お見かけして、その事をうーさんに言って、その時に−−」
「それじゃ、どうして家を出たか、とか、聞いてはおられないんですか」
「聞いてません。−−家を出た、っていうことも。そういうのを一介の客が知ってる、というのが変だと思いませんか?」
「……そうか……普通はそうですね」
 普通は、ね。−−うーさんが普通じゃないのは判ってる。あまりに非凡なのでいろいろ訊きたいことがある、というのも判る。そして、訊いたら訊いた分だけ、あっさりと答えてくれるだろうという事も。もっとも、それはつい一週間前に判った事だけど。
「確かに、うーさんは多少普通じゃないけどね」
「じゃ、昔のままなのか?」
 −−。口先で呟いた独り言に即座に反応され、一瞬私は何も言えなかった。
「え……いや……失礼……」
 少し照れたように、口を押さえて視線をそらせる。
「−−昔、というのが四年ほど前の事でしたら昔のまま、ですけど−−十年ぐらい昔、となると私は知りませんよ」
「十年、って……じゃ、知ってるんですか?」
 ……どうも、岡村さん、って−−顔は三十超えているようだけど、気が若い、というか、世慣れてないどこぞのぼんぼんみたいな……。
「家族に十年以上会っていない、というような事しか聞いていませんが」
「−−兄が自分で言ったんですか?」
 他にどうやって私がそんな事を知ることができる、っていうの。
「話の筋で、ちょろっと……」
「−−」
 −−何だろう。
 岡村さんの反応が、判るような、判らないような…。
 きっと、うーさんは「昔のまま」なんだと思う。
 私は岡村さんに意地悪している。うーさんに関して、私は岡村さんより優位に立っている。確かに、生まれてからの何十年かは一緒に生きてきただろうけど、「今」のうーさんを岡村さんは知らない。そして私は知っている。そして−−岡村さんは、うーさんの事を知りたいと思っている。
 店に着く。
「うーさん。弟さん、連れて来たよ」
 うーさんは読んでいた本から顔を上げ、私を見て、岡村さんを見た。
 相変わらずの無表情。
「すみません」
「……兄ちゃん……」
「二人とも、寒かったでしょう。ストーブに当たって下さい。椅子に座って」
 そう言って、うーさんは椅子を二脚だす。……いいんだろうか……私もいて。
「久しぶりだな、俊介」
 −−うーさんの、常体。
 岡村さんは喜びと怒りと何だか判らない衝動的な感情を抱えて目に涙を溜めていた。
 うーさんは相変わらずの無表情。
「久しぶりも何も−−兄ちゃんが勝手に……」
「まあ、座れ、って。それとも奥に行こうか−−まあいいか。ちょっとお茶入れてくる。麻衣さんもそこに座って−−」
「親父があと二週間もたないんだよ!」
 岡村さんの叫び声に奥に入りかけていたうーさんはくるりと岡村さんを見た。
「それで私を捜していたのか」
「ああ。親父だって、兄ちゃんの事、口に出しはしないけど会いたいに違いないんだ。せめて、一目でも−−」
「それは悪かったな。俊介だって親父にずっと一緒にいてやりたいだろうに」
「−−来てくれるのか?」
「今すぐか?」
「できれば。僕も荷物まとめてホテルのチェックアウトを済ませないといけないから少し時間がかかるかもしれないけど」
「−−判った」
 岡村さんは口を締めて頷いた。
「ちょっと用意するから待っててくれ」
 そう言ってうーさんは奥の部屋へはいる。
 私は、あまりにも急な展開にただ茫然とするほかなかった。
「あ、ああ、植下さん。有難うございました」
 突然、岡村さんは頭を下げた。
「え、いえ、私は別に……。−−実家はどちらなんですか?」
「静岡の方です」
 静岡−−遠い。
「遠いんですね」
「まあ……でも、新幹線に乗ればすぐですから」
 二週間−−お葬式も入れると三週間はするだろう。つまり、それだけの期間、私はうーさんに会えない。……。
「それじゃ、行こうか」
 上着を羽織ってうーさんは店に出て、ストーブを消した。
 ……って……手ぶらじゃない。
「うーさん、荷物は? 何も持ってないけど」
「……あ。そうか、いるんですね。荷物」
「−−」
「買い物なんかの他の用事で外に出るなんて、このところなかったもので……」
 −−だから、って二〜三週間の旅行に手ぶらで行こうとする? 普通。−−まったく……。
「岡村さん。うーさんが旅行の用意してる間にホテルのチェック、荷造りなんかされたらどうですか? それからこっちに来るなり、どこかの駅で待ち合わせるなり−−」
「そ、そうですね、じゃ……」
 言うなり岡村さんは出ていこうとする。おいこら、待て!
「岡村さん!」
「はい?」
「結局、此処に一旦来るんですか?」
「え? はい、取りあえずそう言うことで……」
「道、判る?」
「タクシーで行って、こっちに来ますから」
 −−贅沢もの……。
「この筋、判る? 店の名前言っても、タクシーの運ちゃんに判らないわよ」
「え、え?」
 −−−−。
「タクシーに往復頼んで、チェックアウトの時も待ってもらえばいいわ。この表通り出たらすぐタクシーは捕まると思うし」
「は、はい。−−それじゃ、兄ちゃん、植下さん。後ほど……」
 岡村さんは深々とお辞儀して店を出ていった。
 −−私、よく考えると(考えなくても)部外者なのよ? ったく。
 くるっ、と振り向いてうーさんを見る。
「うーさんも、ぼさっとしないで! 用意しなくちゃいけないでしょ?」
「そうですね。−−じゃ、麻衣さんも−−」
「……何が?」
「一旦お家に帰って用意されるんでしょ?」
「……誰が」
「麻衣さんが」
「……何で」
「一緒に行くんでしょ?」
「……何で」
「行かないんですか?」
「行くも行かないも−−うーさんのお父さんと、私には何の関係もないのに何で突然私が行くことになるの? 他人でしょ? それに、仕事もあるし……」
「そう言われてみればそうですね」
「そうよ」
 −−。
 そりゃ、行きたいのは山々だけど……そこまで非常識なことできないわよ。
「やっぱり麻衣さんはてきぱきしてますね」
「−−。何が『やっぱり』なの?」
「先程の俊介への指示がはっきりしてて、見ていて気持ちよかったです」
「初対面の人にあんな物言いして、恥ずかしいだけじゃ内の。−−だいたい、うーさんがぼーっとしてるから……」
 −−やめた。
「どうしたんですか」
「用意しなくちゃいけないんでしょ? 邪魔になるから私は帰るわ。弟さんによろしく」
「麻衣さん」
 珍しくうーさんに呼び止められたので、間髪おかず振り向いてしまった。
「いろいろと、すみません」
「−−そ、そんな大したことしてないわよ」
 そんな言い方やめてよ。まるで二度と会えなくなるような気がする。
「暫く帰って来れないとは思いますが−−」
「帰ってきてくれればいいわ。待ってるから」
「はい。それでは、亦」
「うん」
 店を出た。寒い。マフラーを取り出し、首に巻く。
 二三週間。−−これが一二年前のつき合ってる最中だったりしたら全く関係なかっただろうけど。
 何だか突然足元の線路が消えたみたい。
 帰って来てくれるよね。−−帰って来れないかもしれない。
 岡村さんは、うーさんの事、好きだわ。劣等感を抱いているかもしれないけれど、憧れている。−−私みたいに。
 どうしてうーさんは家を出たりしたんだろう。どんなに苦しい事があっても、淡々と生きていくような人なのに。
 −−でも。……そうね。もし、自分が他人の迷惑になってる、って知ったら、何も言わずに去ってしまいそうね。うーさんなら。
 私が思ってるようなうーさんなら。


 二週間。
 三週間。
 四週間。
 五週間目−−ようやく、骨董屋は開いていた。
「あ−−麻衣さん。お久しぶりです」
 昨日会って、今日もあった−−そんな感じで、うーさんは言った。相変わらずの無表情で。
「ん−−久しぶり」
 会ったら−−怒るつもりだった。
 うーさんが悪い訳じゃないけど、怒ってみるつもりだった。
 けど、それどころか、こんなに気持ちよく笑顔浮かべて、涙が出てきたりしたんだな、これが。
「どうしたんですか。亦、振られたんですか」
 ばかやろう……。
「感激してるんだから」
「……何がです」
「−−帰ってこないのかと思ってた」
 上着を脱いで、うーさんの出してくれた椅子に腰掛ける。
「何故私が帰らないんですか」
「……何となく……。二三週間で帰って来ると思ってたのに、帰って来なかったから」
「家でもめてたんです。継ぐ、継がないで。私としては、十年も前に何も言わないで家を出てしまったんですから、当然継ぐ資格はないと思っていましたし、その意志もありませんでした。ところが、俊介が私に跡を継いで欲しい、と言い出しましてね。当然継ぐべき人間がそう言いだしたことでいろいろとあった訳です」
「……それで……?」
「周囲の人間が俊介を説き伏せてくれました。−−私には岡村の跡を継ぐほどの器はありませんからね」
「……継ぐ継がない、って……うーさんの家、ってそんなに大きいの?」
「取りあえず山や土地は多く持っているようですね」
「−−」
「私自身には関係ないことですけど」
「まあ、確かに。家なんて、本人が選んで生まれてくる訳でなし」
 そう言って顔を上げるとうーさんとまともに視線が合ってしまい、私は慌てて視線を逸らした。
「−−私は、もの心ついた頃からこんな性格でした。俊介が喜怒哀楽が激しかった分、私はこうなったのかもしれません。障害を持っている、とよく言われました。薄気味悪がられたりもしました」
「−−それ、別にうーさん自身の責任じゃないじゃない」
 私がムッとしてそう言うと、うーさんは一息置いて、優しく「そうですね」と言った。
「表情が出ない、それで何を考えているか判らないから気味悪がられるのだと悟り、なるべく思っている事を口に出すようにした時期もありました。−−信じてもらえなかったから、意味はありませんでしたが」
「表情に出なくったって、口調にちゃんと出てるわ。それぐらいも気付かないような奴等に耳を貸す必要ないわよ」
「……俊介なんかも昔、よくそう言ってましたよ」
 む。−−あ、いかん。弟にライバル意識燃やしてどうするんだ。
「でも、うーさんの事だから出来れば人に嫌われなくないだの言って、無駄な努力払ってたんでしょ」
「よく判りましたね」
「−−」
 何て答えろ、っていうの。
「それでもそのうち何をしても無駄だと悟りましてね。まあ、自分で出来うる限りのことをやって、あとはもう、どうにでもなれ、という事で」
「それが賢明だと思うわ」
「でも、一部の私を好いてくれている人はそうは思わなかった−−というか、私をずいぶんといいように見てくれて……少し、辛かったです」
「うーさんの場合、いい人と言うより−−悪い人になるべき要素がないんだと思う」
 私がそう言うと、うーさんは左下に視線を動かし、何を見ているのかよく判らない目つきのまま、手で顎を支えて黙っていた。
 いつになくお喋りなうーさんに、私は何と返したものか判らないで茫然としている。うーさんが今まで自分から話す事といえば世間話やテレビや本の話で−−自分の事を話すなんて、なかった。
「私は−−人に訊かれた事は包み隠さず話す事にしてるんです」
「訊かれなければ何も話さない、って事? それは」
「……そうかもしれませんね」
 うーさんが一体何を言いたいのか掴めなくてちょっと苛々してるみたい。私って本当に短気だな。
「でも、いくら訊かれても私自身よく判らない事は答えられませんよね」
「まあ、それはそうだろうけど−−訊かれたら何でも答えるだなんて、そんなバカ正直な事、やめなさいよ。言いたければ自分で言って、言いたくなければ訊かれても言わなけりゃいいのよ。人の意向に添ってます、って顔で投げやりにならないでよ。もっと、自分で生きなさいよ。そんなんで、何で生きてるなんて言うのよ」
 −−あわわわ、私、何言ってるのよ。
「そりゃ、私みたいに我を張りすぎて、っていうのも問題あるけど、そこまで他人に甘くするのも考えもんよ。うーさんがそんなに甘いから、私みたいなのがつけあがって用もないのに店にいり−−!」
 ……笑ってる。……うーさんが……笑ってる……。
「? どうしたんですか?」
「−−うーさん、笑ったわね、今」
「……え?」
「亦、意識してなかったの……?」
「はい」
「−−」
 全く……始末に負えない……。こんな風に不意打ちされると……。
「−−でも」
 うーさんの言葉に私は顔を上げる。
「今、麻衣さんの事をものすごく好きだと思っていました」
 −−。
 今、何か、道ばた歩いてたら突然熊のぬいぐるみが死ぬほど落ちてきたような気分になったわ。しかも、そのぬいぐるみ、こともあろうに「なんや」「なんや」って口々に言ったりして。

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