夢より大きい 1

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 私の名前は植下麻衣。満二十六歳。デパートの売り子さんをしている。恋人は今はいない。我ながらほれっぽい方だと思う。
 もうそろそろ「結婚」の二文字がちらつくお年頃。友達がどんどん売れちゃってるからなあ。お見合いの話がないでもないけど……田舎に帰らなきゃいけないからなあ。
 そんなこんなで、約束のない定休日、街をうろつく。
 いっそのこと独身貴族を気取ってやりたいけど、そこまで自分というものをはっきり持っている訳でもない。
 淡いブルーのワンピース、予約してあったCD、毎週購読してる雑誌、お気に入りの作家の本−−そこまで買ってから、息抜きに喫茶店に入った。ケーキセットを頼む。
 平日なので人通りはそれ程多くない。外回りのビジネスマン、暇を持て余した学生のカップル、買い物袋を下げて陽気に笑いながら歩いていくおばさん方。
 好きな人−−らしき人がいない訳でもない。
 けれど、今迄の私のパターンとは遠くかけ離れていて、一体この感情が本当に「好き」と呼ぶに値するか−−判らない。
 だいたい、うーさんと出会ってからもう四年だ、っていうのに……。今迄なんとも思わなかったのが変、というべきか……今更こんな訳の判らない感情を抱くのが変、というべきか……。
「どのケーキに致しましょう?」
 ウエイトレスがケーキをトレイにのせてやってきた。オーソドックスなイチゴショートケーキを指さす。にっこりと微笑みを返してウエイトレスは去っていく。
 ぼんやりと、窓の外を眺める。
 好きになるには、あまりにも情報がなさ過ぎる。私は、うーさんの事、うーさんと呼ぶことぐらいしか知らない。年も、家族構成も−−本名すら、知らない。いつでも、うーさんは小さな路地に面する骨董品店にいる。いつ行っても、感情のない顔で店にいる。ポータブルテレビを見ていたり、本を読んでいたりするけれど、人が来たらすぐ自分のしていた事をやめて、掘り出し物を勧めたり、お茶を入れてくれたりする。
 ケーキと紅茶がやってくる。砂糖を一匙、ミルクを一たらし入れ、匙でかき混ぜて一口、口に含む。ゆっくりと、温かさと甘さと風味が口に広がる。結構あちこち歩いたから疲れたみたい。甘さがとても快い。
 今迄、好きな人への行動のとっかかりは「何処かへ誘う」だった。好きな人、でなくても「好きになりそうな予感がする人」でも同じ。女の方から誘う、というのは好ましくない、って言う人もいるだろうけど、誘ってもらうのを待って、せっかくのチャンスを逃がすだなんて、もったいない事私にはできない。−−まあ、そのことに関してはかなり非難の対象になった事はある。「抜け駆け」なるものも結構したし。−−今、結婚できそうにないのはその報い、かな。
 結婚相手として見た場合−−うーさんは役不足、かな。何と言っても得体が知れない。顔に表情がないから何考えてるか判らないし。
 ま、それでも、長いつき合いでうーさんに全く感情がない訳ではない、って事は判ったんだけど……。
 それ以前に、私の事を結婚相手として意識してもらえないから、はなから諦めるしかない、って説があるんだけどね。
 店内に風が起こる。外は結構風が吹いているみたい。ドアのそばに座ってるとこういう温度差がたまらないな。
 ウエイトレスの問いに「一人です」と答える声。−−何処かで聞いた事があるような、ないような……。
 入ってきた客は通路を隔てた右隣のテーブルにつく。カップを置きながらそちらの方を見る。客は脱いだコートを左の席に置くところで下向きながらもこちらを向いた。
 −−似てる。
 うーさんに。
 ……雰囲気なんかは全然似てないけれど……そっくりだ。顔が。


 店の中は暗い。
「うーさん、電気つけたら? 暗いわよ」
 言われて、どうやら私が入ってくるまで茫然と座っていただけらしいうーさんはびくっ、と体を動かして右の壁にあるスイッチをつけた。
「買い物の帰りですか?」
 うーさんが椅子を持って来ながら言う。椅子は二つ。私の分と、荷物の分。
「うん。ワンピース、買って来ちゃった」
 よどみないスムーズな動きでうーさんは奥へと一旦引っ込む。黒い鼻緒の下駄がたたきにきちんと置いてある。
 うーさんの不思議な雰囲気、ってこの何気なく着こなしてしまっている着物から生じているのかしら?
 盆にのせてお茶を持ってくる。当然、お茶請けのお菓子もついている。
「きんつばをね、買ってきたんです。ちょうど良かった。誰かお客さんが来るだろうと思ってたんですけど、今日は誰も来なくて」
 本当なら、喜びや困惑やらの感情がこもって当然のこの科白も、うーさんの口にかかると無味乾燥な朗読と化してしまう。−−それでも、口調にかすかな変化、なんてものがあるのに気づいたのは……会って二年目ぐらいの時かな。
「麻衣さん、きんつば好きでしたよね」
「うん! 特に出合橋のきんつばはね。甘さ控えめだし」
「出合橋のですよ」
「有り難う。遠慮なくいただきます」
「はい、どうぞ」
 たっぷりの粒あんは「あん」というにはあっさりとした淡泊な味で、甘みにそれ程強くない私には嬉しい。砂糖が少ない分、保存はきかない。皮も、一日も経つとずいぶんと固くなってしまう。多少困ったものであるけれど、生ものの醍醐味、と開き直るしかない。どのみち、今迄で出合橋のきんつばを超えるきんつばは食べたことがない。
「−−何?」
 ふと気がつくと、うーさんは私をじっと見ている。あまり人にまじまじと見られるのが好きでない(まあ、そんな事が好きな人がそうそういるとは思わないけど)私としては、ちょっと耐え難いものがある。
「いつも思うんですが、麻衣さん、本当に嬉しそうにものを食べられますね」
「……だって嬉しいんだもの」
 他にどう答えろ、っていうのよ。
「一人で食べてる時もそんな顔してるんですか?」
「−−自分で自分の顔なんて−−特に、もの食べてる時に−−見てないし、意識してないから判らないけど……おなかが空いてたり、好きなものだったりしたら−−」
 そうだ。
「うーさん」
 言いたいことだけ言ってお茶をすすっているうーさんに声をかける。
「はい」
 私の、身を乗り出す勢いの呼びかけに、全く動じる様子も見せず、うーさんは返事をする。
「……うーさん、兄弟、いる?」
「いますよ。弟と、妹が」
「−−」
 ……何だろう。
 気が、抜けた。
 こ……こんなに、あっさり答えられると……なんか……。何となく訊き辛いと思って、今迄うーさんの身辺に関して訊きたいと思いながらも殆ど訊かなかった数年、って一体何だったの、という気持ち。
「麻衣さんは、弟さんが、実家におられるんでしたよね。−−確か、今年の春から就職でしたか」
 いや、気抜けしてる場合じゃない。
「うん、それはそうなんだけど−−今日、うーさんにそっくりな人見たの」
「−−私にそっくりな人」
「うん。雰囲気とか、全然ちがってたけどね。洋服着てたし。喫茶店で隣のテーブル座ってて−−びっくりしたのよ。嬉しそうに、っていうか、おいしそうにカレーライス食べてたから」
「おいしそうにカレーライス食べてた、って麻衣さんだって−−」
「うーさんの顔でおいしそうな顔してたからびっくりしたのよ!」
 −−あ、亦、興奮して叫んでしまった……。
「そんなに似てましたか」
「顔はね」
「何が違うんですか?」
「雰囲気とか−−その人には、生活感、っていうのがあったわね」
「私にはありませんか」
「……あんまり。−−生活感があるのがいい、って言うわけでもないけどね」
「確かに、そういうことは時々言われますね」
「でも、その辺の憮然としたおじさん達よりは、掃除とかお料理してる姿、っていうのは想像しやすいけど」
「そうですか?」
「つき合いが長いせいかもしれないけど」
 店内の柱時計がボンボンとせわしなく五回なった。
「今日は外で食べて帰ろうかな……」
「きんつば、欲しいだけ持って帰って下さい。そんなに日持ちするものじゃありませんから」
 −−。ふと気がつくと、またもや話がずれている。うーさんと話しているといつもそうなんだ。別にそれが嫌な訳じゃないけど。
「うーさん。私の見かけたうーさんに似た人、って、じゃあ、うーさんの弟さん?」
「でしょうね。一卵性双生児ですから、かなり顔は似てるでしょう」
「−−」
「と言っても、十年以上会ってませんから、どんな顔になってるかは知りませんけど」
 手に持ったきんつばを食べるタイミングを完全に失ったまま、私は茫然とうーさんを見ていた。
「山田の橋、暫くは通行禁止だそうですよ。古くなったんで、作り替えるらしいです」
 なにやらうーさんは話題を変えてしまったようだが、私の頭の中は先程のうーさんの一連の科白がまだ駆け回ってる。
 私が聞いていないのに気づいたのか、うーさんは黙った。
 私は茫然とうーさんを見ていて、うーさんは別に私に次の科白を要求するでもなし私を見ているので、完全ににらめっこの状態になってしまった。
 −−こうなると、どうしたものか。−−そんな、よく判らない考えが何個も浮かんできて、さっきまで本当に言いたかった事が、その陰に隠れてしまった。
 古びた木の机を隔てて、一メートル弱の距離で、まるで動物のような一対の目が私を見ている。
 何も要求していない目だ。何も得られない目だ。私の取りようで、怒っているとも、喜んでいるとも−−好きな色に染めてしまえそうな目。そして、私がいてもいなくても、決して変わらないであろうと言うことも容易に想像できる目。
 私は、この目の前で幾度泣いただろう。欲しかったのは慰め。それ以上に、私の言葉を聞いてくれる心。優しいとか、そういう問題じゃない。
 少なくとも、うーさんに会うまで、私は泣く場所がなかった。自分で涙を噛み殺してしまうしかなかった。
「麻衣さん、顔、赤いですよ。暖房、きついですか?」
「−−え? う、ううん。あ、上着ずっと着てたからだ。はは、きんつばに目を奪われてこんなに暑くなるまで気がつかなかった」
 私は慌ててうーさんから視線をはずしてジャケットを脱いだ。
 いつのまに照れてたんだろう……。気づかれてなかったよね。
 うーん、これはもう、私が話の主導権を握るしかない。
「でも、うーさん。今迄、私、うーさんのそっくりさんなんて、見かけた事なかったわよ」
「私を捜しに来たのかもしれませんね」
「さがす……?」
「はい」
 何で「捜す」という単語を用いるような状況なのか、訊いてみたい。人並み以上の好奇心を持つ私としては珍しくともなんともない事だ。でも−−ふつう、こういう場合、向こうから言うのを待った方がいいのかしら……?
「麻衣さん」
「はい?」
「−−もし、再び私のそっくりさん−−おそらく弟だと思いますが−−見かけたら、私の事を言って下さい。それで、もしも、私を捜しているのなら、此処に連れて来て下さい」
「−−」
「取りあえず年賀状を毎年出しているので、消印をあてにして来ているのだと思います。もし、私を捜しているとすれば」
「−−」
「見かけたら、でいいです」
「−−」
「麻衣さん、どうしたんですか?」
 どうしたもこうしたも、私には訳判んないわよ。基本的な話が判ってないから、なーんにも、判らない。
 訊けば? −−訊けば、きっと、うーさんは答える。さっきみたいに、何でもない、って顔であっさりと答えてしまう。
 訊きたい。−−けど、何故だろう。聞きたくない。今迄訊いてこなかったから、意地になってるのかしら? かもしれない。
 それとも、うーさんのミステリアス(う、何て本人にそぐわない形容詞……)な部分に惹かれてるのかしら……? それはない、と思うけど……。私がうーさんを好きだとすれば、それは−−それは−−何だろう?
 どちらかというと、私が今迄好きになるタイプと言えば、クールで、でもちょっと気が利いてて、気障な感じで−−うーさんと、全然違うじゃない。何でうーさんが好きになったんだろう……?
 −−判ってるんだけどね。二ヶ月前、いつものように振られて、例によってうーさんに泣きついて、やつあたりして、うーさんがそれを慰めてくれた時−−笑ったんだ。うーさんが。初めて。本人は全く意識してなかった、って言ってたけど。
 あんまりにも見慣れてなくて、驚いて、心臓がドキドキして−−
「麻衣さん。起きてますか」
 は。
「起きてる。目を開けたままで寝るほど私は器用じゃない」
 うーさんは答えずにお茶を飲む。つられて渡しもお茶を飲む。−−さめてる。
「お茶、さめてますね。入れ直して来ましょうか」
「……うん」
 自分の感情は出さない(というよりは出ない、と言うべきか……)のに、人の感情、というか「こうして欲しい」という意向は素早く読みとる。それでその事に関して「面倒だ」とか「嬉しい」とかの感情を抱かないので、私が負担に感じる事もない。
 うーさんの事を以前友達に言ったら「変な人」と連呼された。
 確かに、変な人だとは思う。その意見に異存はない、んだけど……何だか腹が立った。
「はい」
 熱いお茶がやってくる。
「有難う。うーさん、まめだから、いいお婿さんになれるわよ」
「そうですか。でも、二人も食べられる程の稼ぎがありませんからね」
「うーさん、子供とか、好き?」
「さあ。実際、接してみないと判りません。生きているものは本質的に好きですが」
「生き……」
 そう言われると、子供もその辺のザリガニも、うーさんにとっては同じ次元のもの、みたいに聞こえる。−−実際にそうなのかもしれない。
「でもよく考えてみると生きているものでなくても結構好きなものがありますね」
「うーさんだったら嫌いなもの数えた方が早いんじゃない?」
「嫌いなもの、ですか」
「−−嫌いなもの、あるの? ないんじゃない?」
「−−取りあえず、ざっと考えてみた分ではありませんね。−−よく判りましたね、麻衣さん」
 ……。
「−−ま、つき合い長いしね」
 言葉に困ってお茶を飲む。
「−−四年、でしたか」
「……え?」
「麻衣さんが初めてこの店に来てから」
「四年−−半、かな。確か夏だったから」
「驚きましたよ。こんな古めかしい骨董品屋に若い女の人があわただしく入って来たんですから」
「……ははは」
 あの日は−−六ヶ月つき合ってた人が二股かけてることが判って、それを怒ったら「じゃあ、お前と別れよう」って言われて……荒れたんだよね。
 それで、そのまま一人でお酒飲んで−−確か、ぶつかったサラリーマンにいちゃもんつけて、反対に殴られそうになって逃げて−−適当に明かりのついた店に入ったら、此処だったんだ。
 品物だけでなく、店自体が、ただ「古い時代」としか言い様のない雰囲気を作り出している。店の一番奥にうーさんが居た。無表情に本を読んでいたうーさんは、私を見て、相変わらず無表情のままで「いらっしゃい」と言って奥へ入った。
 自分が場違いな所にいるのに気づいて、でもすぐに出ていって亦あのサラリーマンに会うのが怖くて、でもお客さんじゃない、って事だけは言わなくちゃ、と思ってしどろもどろに事情を説明しようとしたら−−
「お茶、入れてくれたね」
「はい?」
「お茶。初めて此処に来たとき」
「骨董品は、じっくり見て、少しずつ感じていくものがあって初めて買うものだと思いますからね」
「お客さんじゃなかったんだけどね」
「でも、結局のところ、今までいろいろと買っていただきましたよ」
「……ん」
 だけど−−それ以上に、私は、うーさんに、借りがある。
 結局、初めてこのお店に入った日だって、「そういう事情なら暫くこの店にいるといいです」って言ううーさんの言葉に甘えていろいろ話しているうちに振られた事の愚痴言って、泣いて……。
「……最近……」
「ん?」
 いつもはよどみなく動くうーさんの口が珍しく途切−−れたと思って顔を上げたらお茶を飲んでる……。
「最近、来られませんね」
「……誰が?」
「麻衣さんが」
「……。うーさん、大丈夫? 私が誰だか判ってる?」
「男の人に振られて愚痴を言いに来に、麻衣さん来ませんね」
「……。それじゃ、まるで私が振られて愚痴言いにしか此処に来ないみたいじゃない」
「違うんですか」
「……そりゃ……。だって、フリーで、片想いもしてない、って言ったら、暇で振られたばっかりじゃない!」
「−−今の日本語、私には少々判り難かったんですが……」
「私にも全然判らなかったわよ。−−要するに、つきあってたら忙しくて、好きな人がいたら忙しくて、好きな人がいたら忙しくて、私にとって、そのどっちでもない状態、っていったら、振られた時ぐらいなの!」
「今は振られたばかりなんですか。二ヶ月ぐらい経ってるでしょ」
 −−。こればっかりは言えないわよ。何で二ヶ月もそういう状態に入れないのか。
 −−うーさんのせいだ、って。
「仕事の方の環境がそう変わらなければ、そういう時もあるでしょうね」
 うーさんが勝手に一人でフォロー入れちゃった−−という事は私は言いそびれてしまった、という訳ね。せっかくそっちの方向に話題が向いてくれた、っていうのに。
 柱時計が、一つ鳴る。
「うーさん、外で食事するの、つきあってくれる?」
 何の気なしに、自然にそんな言葉が口から出た。それから、自分で言った言葉に驚いた。
「私は別に構いませんよ」
 ……うそ。
「ただ、戸締まりをしなくてはいけないので早々待っていただかないといけませんが」
 ……まさか「いい」って言うなんて思わなかった。
「麻衣さん、どうしたんですか。今日はどうも少し様子が変ですよ。まあ、そう様子が変だ、と言い切れる程麻衣さんを知っている訳ではないと思いますが」
「本当に、いいの?」
「何がです」
「食事。一緒で」
「構いませんよ。店ももうお客さんは来ないでしょうし」
「……」

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