変調番町皿屋敷 (2)

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 そんなこんなで青山家屋敷跡の枯れ井戸。
 草木も眠り損ないそうな蒸し暑い丑三つ刻。蚊に食われながらもゆうに数十人はくだらない見物客がぐるりと井戸を囲んでいます。
 人が多いのですがそれ特有のざわめきはなく、今か今かと人々は枯れ井戸の口に視線を注いでいます。
 時間が判っている熊さんはご隠居をつれてあらかじめ席を取っておいてくれた八っつあんに礼を言い、井戸に一番近い特等席に座り込みました。


 細い月が心もとなく人々を照らす暗い夜。
 そよとも動かなかった空気がどこからともなく冷気を運び、汗に濡れた人々の首筋から入り込みます。
 人々がぶるりと震えて鳥肌を立てるのと、井戸の口辺りがぼうっと青白く光るのとはほぼ同時でした。
 そこにいるは判っているけどよくよく見るのはちょいと怖くて、それでも勇気を出して目を凝らし、まじまじと見ようとすると今度は輪郭がぼやけてきて姿が定かに見えません。
 髪はばさばさ、手は血みどろながらも恨みをつのらせている、という鬼気とした形相はなく、焦点の定まらない表情が細身の華奢な体とあいまって、その顔ははっきりと見る事はできないものの「美人」と呼ばれる事に何の抵抗もない立ち姿でした。
 果たして見えているのかいないのか、周囲の人間を首を回して一瞥し、どこがどうなっているのか浮いている皿を一枚取り上げます。
「いちま〜い」
 か細い乍も周囲の静寂によって皆の耳にお菊さんの声が届きます。
 井戸の周囲五メートルほどだけ空間が切り取られたように気温がどんどん下がっていきます。
 固唾を飲みたくてもその音が周りに響くのが怖くて身を潜める人々。
「にま〜い」
 皿の山から二枚目の皿を取り、一枚目の皿に重ねます。
 皿と皿の重なる音はさほど大きくなかったものの、清閑な空間で予想外に高く響き、人々の体温を更に下げてしまいます。
 と。
「時に熊さんや、今は何時だったかな?」
 場の空気を全く無視して、ご隠居がいつもの様子で飄々と熊さんに訊ねます。
 人々の視線、そしてお菊さんの視線すらも冷気をはらむ場の雰囲気をぶち壊しにしたご隠居に注がれます。
 しかしながら当のご隠居はそんな視線などものともせず、いつもの様にしわで表情の見えない顔を熊さんに向けています。
「ご、ご、ごいんきょ!」
 何十人もの、そしてお菊さんの視線を受けたご隠居に話し掛けられて、ワタワタしたのが熊さん。叫び出したいところをなんとかこらえて無声音でご隠居をたしなめようとは思うものの、呼びかけの次の言葉が出てきません。
「今何時かい、と訊いてるんだい」
 ご隠居の語調がのんびりとした中に軽い苛立ちを含みます。
 その微妙な差が実はご隠居がかなり怒っていることを表していると知っている熊さんはこれはお菊さんどころじゃねえや、と顔を蒼ざめさせます。
「み、み、みっつです。丑三つどきです!」
 ――ええい、呪い殺されちまっても仕方がねえ! 全部ご隠居のせいなんだよう!
「ああ、そうか。みっつか。有難うよ」
 心の葛藤に悩む熊さんの気持ちを知ってか知らずか、ご隠居は穏やかに返事をすると視線を古井戸の方に戻しました。
 と。
 ご隠居とお菊さんの視線がびたっ! と出会います。
 熊さん、いえ、熊さんだけでなく周りの者全員が一体次に何が起こるのか、と心臓をばくばく鳴らせながらじっと二人を凝視しておりました。
 そんな周囲の緊張感など知ったこっちゃないよ、とご隠居はお菊さんを見つめる細い目を、更に細めて相好を崩しました。
「ああ、途中で切っちまってすまなかったね。いいから気にせず続けてくんな」
 言われてお菊さんはご隠居や周りの者が最初からいなかったかのようなうつろな視線で暫し茫洋としておりました。
 そして、自分の前にある皿を見て、大きな山から一枚、手に取ります。
「よま〜い」
 ご隠居の中断でおかしくなった空気がお菊さんの無感情ながらも悲しみと恨みを含めた声、ひどくゆっくりした動きでまた冷涼なものに戻ります。
「ごま〜い」
 かちゃん。
「ろくま〜い」
 山の高さが入れ替わります。
「ななま〜い」
 主膳に落とされた指は袖の袂に隠れて見えませんが、その袂は血で真っ赤に染め上げられています。
「はちま〜い」
 お菊さんの声以外は虫の音、風の音ひとつ聞こえません。
「きゅ〜ま〜い」
 人山の後ろの人々は、次のお菊さんの言葉を待って、ずっとそばだてていた耳を二割り増しほどの神経を使って固唾をのみます。
 そして、お菊さんの手元が見える程近くにいた人は、お菊さん同様、困惑の感情に包み込まれていました。
 少なくなっていた皿の山に、まだ一枚皿が残っていたのです。
 お菊さんは困った目で周りを見回し――亦、ご隠居と視線を合わせました。
 ご隠居は軽く頷きました。それでいいんだよ、とも判っているよ、とも取れる優しい表情でした。
 お菊さんは戸惑いの表情のまま、残りの一枚を手に取り――
「じゅ〜うま〜い……」
 かちゃん、と皿が乾いた音を立てて置かれました。


 「いったいぜんたいどういう事なんですかい!?」
 こんな夜中に町中を話して歩くのも不作法だから、とたしなめられて動かしたい口を何とか我慢させていた熊さんは、ご隠居の家に入るなり大声を上げました。
「おいおい、こんな安普請じゃあ声も筒抜けなんだからもう少し小さな声で話しとくれ。お隣さんは明日の仕事に向けて無理して寝てるんだから」
「へ、へえ、すいやせん……。で、何だってこんな事に? いつの間にお菊さんは十枚目の皿を手に入れたんですか? それとも、ご隠居がこそっと皿を足して――」
「私は何もしていやしないよ。しかし熊さん、何が起きたのか全然判らないのかい?」
「ええ、てんで判りゃしませんや。……そういや、八っつあんはニヤニヤ笑ってたな……」
「ああ、八っつあんは判ってたみたいだね」
「え!? そうなんですかい!?」
「だから声が高い、って言ってるだろ? ――つまりこう言うことだよ。お菊さんが皿を一枚二枚と数えたろ?」
「はあ、数えてましたね」
 何で皿が増えたのか説明してもらえると、思っていた熊さんは突然ご隠居が回想を始めたものですからキョトンとします。
「その後で私がお前さんに時を訊いたろ?」
「あ〜、あれはもう肝を冷やしましたよ。成仏しちまったからいいようなものの、そうでなけりゃご隠居、お菊さんに呪い殺されてるところですよ」
「ああいう霊は赤の他人を呪うようなことはしないよ。――まあ、それでお前さんが三つだと答えた。三つだ、いいかい。そして、お菊さんの皿は次は何枚目だい?」
「え? 三つの次だから四つでしょ?」
 何を当たり前の事を訊くんですかい、と言いたげな熊さんの口調に、ご隠居は思わず溜息をつきます。
「やれやれ、お前さんは本当にだまされやすい奴だねえ」
「え? 何がですか?」
「いいかい、お菊さんは最初何枚目まで皿を数えたんだい?」
「最初は一枚目から始まるに決まってますよ。ご隠居、人をバカにするにも程がある」
「いや、そういう最初じゃなく、私がお前さんに声を掛けるまでに何枚数えたか、と訊いてるんだよ」
 あまりの熊さんのトボケぶりにご隠居は声を苛つかせかけ――いやいや、今は静かにしなけりゃ、と、我に返ります。
「そりゃ……えーっと……二枚、でしたかね?」
「ああ、二枚だよ。そして、お前さんが時を答えてお菊さんが数え始めたのは何枚目だい?」
「え? えー……四枚目……。――え? 三枚目は?」
「その三枚目が割れて存在しない十枚目だった、って訳だよ」
「え? 三枚目が十枚目? お菊さんが割った皿、ってのは十枚目の三枚目だった、って事ですかい?」
 ご隠居は詰め寄る熊さんにそうじゃないよ、と軽く首を振り、大きくあくびしました。
「さすがにこんな時間まで起きてると年寄りの体にはきついねえ。今日はぐっすり眠れそうだ」
 言いつつ、ご隠居は押入を開け、布団を引き始めます。
「冗談じゃねえ、このままご隠居に寝られちまったらあっしはお菊さんの皿が九枚だったのか十枚だったのか、気になって眠れやしませんや」
 と言いつつ、熊さんはご隠居の布団をてきぱきと引いてやります。
「ああ、有難うよ。相変わらず、優しいねえ。――お菊さんの皿は昨日も九枚、今日も九枚だよ。ただ、二枚目数えた所で『今は三つ』なんて言ったもんだから、三枚目を数えたもんだと勘違いして、三枚目を四枚目と数えちまったのさ。それで皿が揃ってお菊さんは心残りがなくなって成仏した、って訳だ。
熊さんも早く帰って寝なよ。明日も仕事なんだろ?」
 眠気でどんどんご隠居の口調は遅くなります。
 熊さんは一応合点は行った様子ですが、頭をフル回転させているらしく、少しも眠そうにない様子で固まっています。
「やれやれ。話は亦明日だ」
 熊さんが動かないのを見て取ると、ご隠居は布団に横になりました。
「!? ご隠居!」
 ほんの一瞬で気持ちよく眠りの雲に包まれていたご隠居を、熊さんが大声で揺り起こします。
「!? な――お、おおごえをだすんじゃないよっ!」
 精一杯の無声音でご隠居は飛び上がって熊さんを一喝します。
「あ……す、すいやせん、つい……」
「一体何なんだい、もう……明日じゃ駄目なのかい?」
「すいやせん、あともう一つだけ……」
「何だい」
「もしかして、ご隠居、お菊さんを成仏させたくて、あんな風にあっしに時を訊ねたんですかい?」
 まさか熊さんがそこまで頭を回すとは思っていなかったご隠居は、一瞬で眠気を吹っ飛ばし、苦笑しました。
「まさかああまで都合良く事が進むとは思わなかったけどね」
「ご隠居、すごいや!」
「シッ! また声が大きくなってる!」
「す、すいやせん……。――でもまた、何で? 呪い殺されるかもしれない、ってのに……」
「呪い殺されることよりも、お菊さんがこれに引っかかってくれないかもしれない、っていう心配があったんだけどね。あと、お菊さんが私の思っていた通り、恨みでこの世に姿を現してるんじゃなくて、許されたいからあんな風に出てる、ってのじゃなければ、皿が十枚揃ったところで成仏できなかったろうし」
「何でそんな事したんです?」
「――熊さんが言ってたろ?」
「……へ? あっし?」
「ああ。いつまでも成仏できないなんてかわいそうだ、ってね。それで出来るかどうかは判らないけれど一肌脱いでみようかって思ったんだよ」
「……ご隠居……」
 自分のためにご隠居が動いてくれたのが嬉しいのか、かわいそうなお菊さんが成仏できたのが嬉しいのか、熊さんはおいおいと泣き始めました。
「おいおい熊さん、もう少し静かにしておくれよ。でないとご近所が――」
 言いつつ、嬉しそうなご隠居でした。


 暑い暑い夏の、ほんの肝冷やしにもならぬ小咄でした。

                                              (おしまい) 
                                          初書 2000.11.28-2000.12.27.

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