変調番町皿屋敷 (1)

  その2 トップ 創作世界

 花のお江戸は夏真っ盛り。
 うだるような暑さにさすがの江戸っ子も夏バテ気味です。
 窓という窓、扉という扉全て開け放っても風はそよとも入ってこず、幻聴のように風鈴の音が聞こえたかと思えばそれは売り物の引き車がかき鳴らす夏の風物詩。
 夕になれば、夜になればの思いもむなしく、夕立は蒸し暑い空気を引き立てるばかりで連日の猛暑でひたすらにお日様が弱ってくれるのを待つばかり。
 これはそんなあつ〜い日のお話。


「ご隠居〜、いますかい」
 訊くよりも目で見れば厠にでも立っていない限りは一部屋の狭い長屋、いるかいないか即座に判るもんですが、毎回律儀に声を掛け熊さんは入ってきます。
 ご隠居はゆるりゆるりとうちわを扇ぎつつ、一人囲碁をパチリパチリと打っております。
「おや、熊さんじゃないか。どうしたんだい、汗だくじゃないか」
「どうしたんだいじゃないでしょう。この暑さなら汗だくになって当たり前、ってもんですよ。ご隠居の方こそ、こんなくそ暑い中、囲碁なんてよくやってられますよね。暑くないんですかい?」
「暑くない訳ないだろ。けどさ、人間考え方ひとつで暑いもんも暑くないような気になれる、ってもんだよ。心頭滅すれば火もまた涼し、ってやつだよ」
「しんとう……何ですって?」
「――冷たいもんだと思えば、火を触っても涼しい、って事さ」
「ひえええ、そんなの、火を触ったら火傷するじゃないですか! それとも、何ですか? 火の方に何かからくりが?」
「そういうたとえ話だよ」
「なーんだ、たとえ話ですか。どうもご隠居の話は難しくていけねえや。こう、もうちょっと、あっしみてえなバカにも判るような話をして下さいよ」
 ――いや別に物語をしてるわけじゃねえんだがなア。
 ご隠居はちょっとあきれて、でもいささか楽しそうに熊さんを見ます。
「そういやお前さん、今日は何か話でもあったのかい?」
「ああそうそうご隠居、番長皿屋敷のお菊さん、ってご存じですか?」
「ああ、知ってるけど――それがどうしたんだい?」
「いえね、昨日八っつあんに誘われて見に行って来たんですよ。ちょっと涼を取りに行かないか、って」
「見に行く、って……出るのかい?」
「厭だな、ご隠居、知らないんですかい? 何でもご存じなのに、そういうところでものを存外に知らないんですね。ほら、小路町の五番町の投げ込み井戸の所に出るんですよ」「――で、八っつあんと二人で行って来たのかい?」
「それがまあ、びっくりした事に、見物人の山でさっ!」
 熊さんの言葉に、ご隠居開いた口がふさがらなくなります。
「早く行かないと席がなくなる、ってんで何の事やらと思いながらも八っつあんと子の刻から井戸前で待ってたら、丑三つ刻には二十人、いや、三十人、いや、もっと人が集まってきやしてね。悲劇の美女、お菊さんを一目見ようとくそ暑い中、ものも言わず男も女もひきめきあってお菊さんが出てくるのを心待ちにしてるんですよ」
「……お菊さんは毎日出てくるのかい?」
「ええ、丑三つ刻には現れて、いちま〜い、にま〜い、って数えるらしいですよ。もう、八っつあんなんて毎晩通って顔なじみ、ってやつです」
「そんな遅くに出歩いて、次の日の仕事に差し支えやしないかねえ」
「いやいやそいつが逆で、肝を冷やしちまうもんだから、夜の暑さもなんのその、朝までぐっすり眠れるって寸法でさア。いつもよりも元気で過ごせるって訳ですよ」
「はア、そんなもんかねえ……。本物の幽霊が見世物になっちまうなんざア、世も末だねえ」
「そういや、あのお菊さん、ってのはなんで皿を数えてるんすか?」
 熊さんに言われてご隠居、細い目をぱちくりさせます。
「――お前さん……番町皿屋敷の話を知らないのかい?」
 言われて熊さん、暫くは「知ってるよ〜な……知らないよ〜な……」とごにょごにょ言ってましたがご隠居の茫洋とした視線に堪えられずに「えへへへ」と照れ笑いをします。
「時は四代将軍の時だよ――」
 火付盗賊改青山主膳は盗賊の向崎甚内を逮捕し、拷問の後処刑しました。その娘お菊は母もおらず、身よりもなかった事から、主膳が下女奉公として引き取る事にしました。
 年月は過ぎ、お菊は美しく成長し、主膳はお菊を妾にしたいと申し出ました。しかし、お菊にしてみれば主膳はたった一人の身寄りだった父のにっくき仇、うんと頷く筈もありません。
 毅然としたお菊の態度に、かわいさ余って憎さ百倍。主膳はお菊をどうにかこらしめてやろうと考え始めます。
 それにもまして面白くないのが主膳の奥方様。お菊の器量良しなのも気に食わなければ身寄りのない盗賊の娘のくせして性格の良いところも気に食わない。更に主膳がお菊を妾にしようとしていたと知り、これまたお菊に対する憎しみをつのらせていました。
 そんなある日、お菊はついうっかりと十枚組の青山家の秘蔵の皿を一枚割ってしまいました。
 下女が粗相をして皿を割るなど珍しくない話。いくら秘蔵の皿とはいえ、青山家の財力から言えばそう大騒ぎするほどのものではありません。
 ところが割った皿を手に取り茫然としているお菊の髪をいきなりつかみ、怒鳴った者がいました。
 奥方様です。
 なんと奥方様は、お菊が秘蔵の皿を割っておきながらそれを隠匿しようとした、と言いがかりをつけたのです。
 申し開きをする暇もあらばこそ、お菊は奥方様に何度も顔を叩かれます。
 その話はすぐ主膳の耳にも届きました。
 しかし、主膳はお菊を許してやるどころか大罪人の娘呼ばわりし、お前の割った皿はお前の指一本に相当する、と下働きで荒れてはいるもののか細い指を一本切り落としてしまいました。
 滴る血をぬぐう時もないまま、離れの暗い部屋に閉じ込められたお菊。
 自分のした事の釈明もできず、食事も与えられず、傷の治療もしてもらえぬまま部屋にうち捨てられた彼女は一体何を思っていたのでしょう。
 夜になり、見張りの者が目を離した隙にお菊は外に出て、使う者もいない古井戸に身を投げ、二度と浮かんで来はしなかったのでした。
「そして、暫くして古井戸からお菊さんがいちま〜い、にま〜い、と成仏しきれず現れてきた、って訳さ」
 語り終わってご隠居が熊さんを見ると、なんと熊さん、滝のような涙を流していました。
「ど、ど、どうしたんだい、熊さんや」
「なんてかわいそうな話なんでしょう。いや、それで、その青山って奴はちゃんと呪い殺されたんですかい?」
「お菊さんの件がお上に知れてお家断絶、一家離散、って話だよ。それでお屋敷は無人になってそのうち今みたいに井戸だけ残して更地になった、って話だ」
「青山が死んでもお菊さんは成仏できないんで?」
「まだ出てる、って事は成仏できてないんだよ」
「なんかね、恨んでるとかそういう風には見えなかったんですけどねえ。なんか哀しそうな目であっしらを見ておりやしたよ」
「――え? お菊さんは周りの人の事に気づいてるのかい?」
「みたいですよ。八っつあんの話だと、昨日は静かだったけど、いつかだったか誰かがお菊さんに話しかけてお菊さんに見つめられて呪い殺された、って話ですよ」
「へえ。そうかい」
 言って暫くご隠居は何かを考えこんでる様子。
「でも、あの綺麗なお菊さんにそんな哀しい過去があったとはねえ。何かワイセツを感じますよ」
「それを言うなら哀切だろ」
「そうそう、そのアイセツですよ」
「ワイセツじゃあいやらしいよ。別に無理に難しい言葉を使わなくてもいいんだから」
「へへへ、教養がはみ出しちまいやした」
 笑ってはみたものの、熊さんはまだ涙目で、心はまだご隠居が離したお菊さんの悲しい話にあるようです。
 そんな熊さんの様子を見て、ご隠居は暫し思案顔。
「? ご隠居、どうなさったんで?」
「あ、ああ、いや、別に。――ところで熊さん、今日もそのお菊さんを見に行くのかい?」
「へえ、まあ、八っつあんと一緒に行く約束はしてるんですが……何だか、今のご隠居の話聞いて、そんなお菊さん見てはしゃぐのも何だか悪いような気がしてきて――」
「よければひとつ、私も連れていってくれないかい?」
「え? ご隠居も行くんですか?」
「まあ、冥土の土産に幽霊の一つや二つ見るのも悪くないかな、と思ってね。お前さんたちがいたら腰を抜かしても連れて帰ってくれるだろうから心強い。構わないかい?」
「構わないも何も――ご隠居が一緒となれば話は別だ。是非案内させてください!」
 熊さんはさっきのしょげ具合がどこかに吹っ飛んだように、ウキウキしはじめました。

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