薬玉
立ち上がって窓の外を見る。比較的新しく、衛生的な病院。その庭では、今、桜が咲いている。−−違うな。咲いてるんとちゃう。もう、散ってるんや。 雨が降る度に、風が吹く度に、花びらはこれでもか、これでもか、って散ってしまう。 家の桜も、もう散り終わってしもたやろか? それやったら−−亦、間に合わんかった。これから、あと一年、待たなあかん。辛くても、生き延びなあかん。 桜の花びらの絨毯。私は、それが好きや。満下の桜よりも、散った木の下にある、あの桜色で敷き詰められた地面が好きや。 一回目の入院の時、此処に来て、死ぬんやったら、どうせ死ぬんやったら、桜の花びらが切りきる寸前に死のうと思った。−−私の亡骸が、桜の花びらを踏みつけてゆく人々に運ばれる。 それさえ叶ったら、素直に成仏できるやろうと思ってる。 花が散るのがええんと違う。地面の上に花びらが残ってるからええんや。 あの、地面が見えへんようになる程たくさんある花びらはいつ消えてしまうんやろ? 花が切りきってしまう頃、私はまた一年、生きなあかんと思う。もう、そんなんで、五年も入退院を繰り返してきた。 いろんな人に迷惑をかけてんのは判る。私が死んでしまったら、哀しむ人がおる、って事も。そやけど……。 桜が散り始めて数日後、退院が決まる。一度風の強い日があったために、桜はもう九割方散ってしもてる。到底花見客を呼べるような姿ではなかった。 「家の桜、散ってしもた?」 「ま、な」 だんなさんは無愛想に答えると、少ない手荷物を持って、歩き出した。 私はこそこそと後をついていく。 「あんまり無理すんなよ。もう入院せえへんようにな」 「うん」 私は、自分が桜の散る季節に死にたい、って思ってる事を彼に言っていない。いつでも私が退院する時、「もう入院せえへんようにな」って言うてくれる。−−迷惑かけてる、っていつも思ってる。−−そやけど……。 いつもより彼の歩く速さが速い。運動に慣れてへん私はすぐに息が切れてしまう。 「どないしたん。何急いでんの? しんどい、ちょっと遅して」 「あ、ああ、すまん」 謝ってるようには聞こえへん口調で彼は言うた。 彼の顔を見てみる。内面から笑顔がにじみ出てる。 「−−何か面白い事でもあったん?」 「ああ、もう、しんぼうたまらん」 −−何がなんなのか、全然判れへん。 「何? 何がしんぼうたまらんの?」 「実はな−−庭をちょっと変えたんや。黙っといて驚かしたろ、思ててんけど……あかんなあ。どうしても顔に出てまうわ」 「庭を……?」 一瞬、庭にある桜が頭の中に浮かんで−−消えた。 「ああ。まあ、見たら判るわ。−−あーあ、あかんなあ、俺は。何でこないなってしまうんやろう……」 彼はまだ陽気にぶつぶつ言ってる。 庭を……ちょっと変えた? 何処を? どんな風に? −−訊きたいけど、訊かれへん。怖くて。−−怖い? 何が? 何故か、足が速く動く。何でか判れへんけど、不安に襲われる。 門が見えた。思わず、駆け出してしまう。 「あ、おい! 無理すんなよ!」 桜−−あった。 その姿のまま、桜はある。風にそよいで、花びらを散らす。毎年、私を迎えるその姿は変わっていない。 「−−何をそんなに急いでてん。変えたんはそことちゃう、こっちや」 そう言って彼は門を開け、左手に進んだ。 「−−」 満開の…… これは……何ていう花やったっけ? 細い枝に抱えきれないほどの花びら。僅かながらも桜色の色彩に彩りを加える緑色の葉。 何ちゅう名前……やったっけ……。 「どや。綺麗やろ。八重桜や。今が満開や」 「−−」 そや。八重桜。−−忘れてたわ。 「あんなに花びら集まって−−薬玉みたいやろ。自分の退院を祝ってくれてるんや」 −−薬玉。 ……それは、多分「××開通」なんかでのイベントで使われるような豪奢な薬玉やのうて、職人さんが手間暇かけて作り上げる慎ましいものなんやろう。 「……そう、やな。綺麗やな」 「自分の退院を祝ってるんや」 彼は、繰り返した。力強く。 少し強い風が吹いた。 花びらが、舞う。−−そやけど、それは八重桜の花びらと違う。お隣の、私が憧れていた桜の花びら。 八重桜は嬉しげにその薬玉を揺らす。少し、笑っているようにも見える。 「そのうち散ってまうけど……来年も、再来年も、その次の年も……自分の健康を祝ってくれてるんや。そやから−−」 「−−」 −−もしかしたら、彼は…… 「さ、中に入ろか。これから、ちょっとずつ体動かしていったら元気になるて。俺もめーいっぱい協力させてもらうから」 「うん」 彼は、力強く歩き出した。 私は、その後ろを、彼の力に引きつけられるように歩き出した。 (おしまい) 初書 1987年春ぐらい? |