河内音頭に抱かれて・13
13 河内音頭は大騒ぎ 第二の櫓完成午前十時。取り壊しを要求するも、大仲組への連絡がスムーズに行かず、結局そのままいくことにする。 もしも妨害が来た場合を想定して、近くの交番に連絡だけ取っておく。幸いにして天気は上々。知事が来るのに備えてテントなぞを用意する。 午後四時程から夜店の用意が始められる。 大阪人、新幹線にて東京駅に到着十三時。 既に酒で出来上がっている。着替えるスペースもなかろう、と言うことで浴衣を着ている。酔っぱらった浴衣のおっさんの集団。しかもベタベタの大阪弁。人目に付かないはずがない。しかも、東京にて現地の悪口いいまくりである。大阪人のマナーの悪さがまた言われるに違いない。 しかし、これから生意気な東京人をぎゃふんと言わせてやる、という高揚感で興奮している酔っぱらいの集団には周りの眼など、関係ない。 その勢いのまま昼食、そしてぶらぶらと観光をして(東京嫌いとちゃうんかい!)錦糸町盆踊りに少し遅れるぐらいの時間を見計らって出発する。 メンバーは、雪丸を先頭に、東京をこよなく嫌う大阪人の会(自称)のメンバー、二十人である。 言えば集まるもんである。 霞は午後四時に冬哉と待ち合わせをしていた。藍色に花火の散った浴衣。髪の毛は着物に合わせた落ち着いたアップにし、浴衣に合わせて藍色の巾着を持っていた。それだけなら、単なる盆踊りに行く人、もしくは花火大会にでも行く人のようだが、藍色の布にくるんだ三味線が凡人との差を付けていた。三年ぶりの櫓、しかも知らない人だらけは初めて、と言う状況での三味線弾きに今から緊張の面もちである。 冬哉はちょうど四時に現れた。霞のたっての願いにより、浴衣を着ている。長髪に浴衣、というのはかなり違和感があるが、霞はそうは思わず、ひたすらうれしがっていた。冬哉は貞子に着付けてもらったらしいが、そんな話をするのは自分らしくない、と思っていたのか、霞が話を振ってもあまり返事をしなかった。 そして―― 「行くのか?」 すっかり帰郷の用意を済ませた小野木が、浴衣を身につけた秋を見ていった。 「ああ。小野木も、帰るのか」 「うん。十六日の晩に帰ってくるし。久々に家の料理を食べてくるよ」 「よかったな」 小野木と軽い会話を交わして、秋は五時に部屋を出た。錦糸町には盆踊りが始まって暫くしてから着くはずである。 浴衣で歩くと、さすがに寮内で会った人間は驚いていたようだった。だが、その人物が秋であることを知ると、納得するものも多かった。 まだ、秋は自分がどうでるのか、決めかねていた。大阪側につくのか、東京側につくのか――中立でいることはできないだろう、と思っていた。そして、どちらかにつく、と言うことはどちらかと決別する、と言うことである。 決別。 こうやって、浴衣を着て、河内音頭に向かう段階で、秋は霞のことを諦めた事になる。 心の中では、決して霞を諦めたわけではない。きっと、もっと好きな娘ができるまで、霞のことを忘れることなどできないだろう。だが、冬哉に遠慮しているわけではないが、冬哉の言うことなど聞く筋合いは全くないのだが、約束は約束、霞に会わないでおこう、と言う気持ちはあった。なによりも、霞が冬哉に言われて素直に秋と会わない、と言ってたのである。無理強いをして会っても、自分が辛いだけなのは判っていた。 別段、河内音頭と霞を秤にかけたわけではないのだが、結論として、秋は河内音頭を選んだ形となったのだ。 浴衣を着て、心の中で唄を唱えながら会場に向かいつつある秋は、心の中のもやもやを全て河内音頭に託していた。 六時。ついに錦糸町河内音頭の火蓋が切って落とされた。 ローカルテレビ番組のクレーンが頭上に上がる。櫓の当たりに焦点があっているというのに、子供達はカメラに向かってピースサインを向ける。 まずは錦糸町会長の挨拶、そして関東河内音頭振興隊長山本健治の紹介で東京知事が短い挨拶をした。 よもやこんな街の盆踊りに知事が来ているなどと思っていなかった人達はビックリこいた。そして、隊長と知事の言葉で初めて関東おんどーむの存在を知ることとなった人が多かった。 そのおんどーむがどの様な感じのものか、河内音頭ドームを知らない人が(当然)多いので、そのコンセプト等は説明されたところで納得できないのであったが、踊りに来た人達、テンションの高い人達はなんだか判らないが、楽しそうなことがあるのだなあ、と感じるだけで大騒ぎであった。 そして、ついに河内音頭が始まった。 前座の音頭取りと太鼓打ち、三味線弾きが櫓にのぼり、軽く一曲歌い始める。お揃いの浴衣に身を固めた隊員以外は殆ど踊る人はいない。サクラとおぼしき人が隊員の動きを見ながらそれを真似て踊ってる程度である。 「さては一座の皆様ヨ コラがたにゃヨホホイホイ」 「アーエヤコラセー ドッコイセォ」 何処からか持ち込んだアンプは音が割れていたが踊り手は殆どそれを気にしていない様子だった。 白地に紫の柄、金の帯、と言う派手なお揃いの浴衣を着た隊員は誇らしげに踊っている。 進行方向に左足左手、右足右手、左足を半歩踏み出し櫓へ向く。右足に踏み変えて体を櫓に向かす足を左から三回踏みならすと同時に手拍子も三回。そして、進行方向に踏み直る――今や、河内音頭と言えばこの踊り、と言われる「マメカチ」を隊員は忠実に踊っていた。 その輪が少しずつ広がる。見物人も増える。 「あ、ほら、佐々木さん、お母さんですよ!」 「……指を指さなくてもいい。見えてる」 霞の出番は三曲目である。本当は緊張しまくりなのだが、それが興奮状態となって、夜店一つにもおおはしゃぎ状態であった。基本的にお祭り騒ぎが好きでない冬哉は仏頂面を浮かべたままであったが、霞はそんな事は気にせずに楽しそうに節に合わせて手足を小さく動かし始めた。 「……佐々木さん……」 霞が何かいいたげに冬哉を見る。冬哉は、霞が何を言わんとしているかはなんとなく判ったが、そのことが自分にとって嬉しいことではなかったので、しらばっくれて霞を見た。 「何だ?」 わざと怖い口調で話す。霞はちょっとわがまま言い過ぎかな、とは思いつつも、あふれる思いを止めることができず、にこにこと笑っていった。 「一緒に、踊りません?」 「……中野さんだけで、行っておいで。荷物は俺が持ってる」 予測していた答えではあった。しかし、今日の霞はいつになく強気である。三味線、という強い味方(?)を背負っているからであろうか? 「河内音頭、嫌いですか?」 むくれたような口調で言う。 その瞬間、冬哉の頭の中ではじけた記憶があった。 両親に無理矢理連れてこさされた河内音頭。そこであった小さな三味線引き。輪の中に入ろうともしない冬哉に、その三味線引きはにこっと笑っていった。 「河内音頭、嫌い?」 「ああ」 「でも、踊りもしないで嫌うのは、河内音頭がかわいそうやで」 ちびの癖になんて生意気な口をきくんだろう、と思い、そのままそのちびを無視した。 そのおちびさんが櫓の上でいっちょまえの三味線を弾いたのを聞いた時の驚き。 「おまえ、うまいな」 「ホンマ!? ほな、一緒に踊ろ!」 何が「ほな」なのか、全く判らなかったが、そのこの言葉に素直に従う気持ちになっていた冬哉は頷いた。そして、それが彼にとって、唯一の河内音頭に関わっている楽しい記憶だった。 「君だったのか……」 「? どうしたんですか?」 「いや……。……十年以上踊ってないから振り付けは忘れてるし、てんで様になってないと思うけど笑うなよ」 見ようによっては照れているともとれる仏頂面で言った。 途端に、霞の顔がぱーっと明るくなった。 「じゃあ、行きましょう!」 嫌だという暇もあればこそ、あっと言う間に冬哉は引っ張られて輪の中に入っていた。さすがに結束された集団の中に真っ向からつっこむ無謀さはなかったらしく、二人は素人が多いところに入っていた。 「こんなの、手足を動かして覚えるモンですから、私を見て適当に踊って下さい」 河内音頭なんて泥臭いもの、と心の何処かで思っていたのが嘘のように、霞は踊りだした。背負った三味線が少しじゃまだけれど、それは致し方ない。 冬哉はどうすることもできず、とにかく母親には見つかりませんように(見つかると後がうるさいから、と言う理由はわざわざ付けなくても判るだろう)、と祈りながら小さく手足を動かし始めた。 基本的には、踊っている人にとっては、河内音頭の唄の文句というものはあまり気にならないものである。言葉も一つの節としてしか認識していない。時々、歌い手が自分の好きなように節を変えることもあるが、それに対しても踊りを変えることなく、いつかは唄と踊りが会うだろう、などという楽天的な考えでとりつかれたように踊り続けるのが常であった。 しかし――全く違う節がそこに加わったとすれば、話は別である。 まず、ギターが鳴いた。 ロックを思わせるギターソロが河内音頭ののんびりとしたスイングを打ち崩した。うなるギターは十秒ほど浸ったメロディーを奏でると、テンポそのままにスイング調に移った。そして、その音に見事なまでに太鼓、三味線、キーボードが加わった。 縦ノリでも充分通用しそうな河内音頭が始まった。 「エー さては東京の田舎モンよ 本場の音頭をヨホホイオイ 「アーエヤコラセードッコイセ」 何処から電源を引っ張ってきたのか、スポットライトが櫓の上を照らす。 今まで取り巻きの見物人だった一団が、バッと浴衣を脱ぎ散らし、黄色い法被に黄緑の長いハチマキ、腰にはひょうたん、半ズボン、と言う男踊り風の衣装を身につけた老若男女(若い男女はいないが)第二の櫓を囲むように輪を作る。 音頭のテンポは錦糸町のそれより速く、結果として二つのスピーカーの音が混ざって不協和音を作り出していた。 しかし、第二の櫓を囲む連中はそのなかから自分たちのための河内音頭の音を聞き分け、的確な踊りを続けていた。それに対し、一般人も含む錦糸町の櫓は二つの音に翻弄され、めろめろになっていた。関東河内音頭振興隊員にしても、まさかそんなことになろうとは思っていなかったため、どの音に合わせて踊ったものか、当惑していた。 踊りの二つの輪は、片方はとまどい、片方は張り切っていた。河内陣の踊りは、基本的な形こそ錦糸町と同じ「マメカチ」であったが、手足のふりは大きく、回転が入り、ディスコ向けの縦ノリ踊りで素人にはそこんじょそこらで真似できるようなものではなかった。 「――雪丸はん!」 櫓の上で見事な声を披露しているのは、まごうことなく、雪丸――上田兼雄であった。 同じ河内音頭の同志(なんやそれ)として尊敬していた歌い手の手ひどい裏切り――錦糸町の櫓は死んだ。歌い手は唄うことを諦め、三味線は奏でることを放棄した。踊り手は音楽を失い、河内陣に合わせるにはテンポが違いすぎた。 「ほらほら打たれ弱いは東京陣 あっと言う間に押し黙りヨホホイホイ」 雪丸は本来新聞詠み(時流に合わせて新しい歌詞を作る歌い手)ではない。アドリブは当然はいるが、「河内十人斬り」などの従来のお題目を主に唄っていた。しかし、ここに来てこてんぱんに東京陣を打ちのめしてしまうため、殆どをアドリブの新聞詠みを行った。 知事は何が起こったのか、判らなかった。 しかし、もめ事が起きたことは一目瞭然である。いつまでも盆踊りを眺めていても何の足しにもならないことに薄々と気付いていた知事はぼちぼち帰ろうか、と思った所の騒ぎであった。そんな、河内音頭を巡る抗争などがあるとは全く知らなかった知事には寝耳に水の事件であり、この事について錦糸町会長に説明を請うた。 当然、会長には答えられない。 たとえ答えられるとしても、そんなおんどーむの設立に不利になるようなことを答えられるはずがない。とにかく、なるべく動揺を隠して、「これは一種の趣向だ」という方向に持って行くしかなかった。 今はその説明でもよいが、このまま事が済むとも思えない。もし知事が、雪丸の唄をきちんと聞いていれば、第二の櫓の東京に対するただならぬ悪意はあっと言う間に読みとられてしまうだろう。ただ、素人目、いや、素人耳には聞き取りにくい言葉であることが唯一の救いであった。 「こんなん……あかん!」 何がどう駄目なのか、自分でも説明のつかない科白を言って、霞は駆け出そうとした。その腕を冬哉が掴む。 「どうするんだ!」 「こんなん、あかん! そりゃあ、東京は嫌いかも知れないけど……だから、ってこんな手を使うのは卑怯よ! みんな、こんなに楽しんでるのに、それをぶち壊して大笑いするなんてずるい!」 「だからって、霞ちゃんが行ってどうなるっていうんだ? あの踊りの渦に巻き込まれて櫓の上からじじいに笑われて、詩に詠み込まれて笑いモンになるだけじゃないか!」 さすが第一稿ではその目にあったものは科白の重みが違う。 しかし、それでも霞は激情を止められずに、冬哉の手から逃れようともがいていた。 興に入ったのか、河内櫓は踊りのテンポをますます増していく。到底素人にはついていけそうもない。二十人余りの集団は我が物顔で踊り続ける。 「雪丸 雪丸オトーよオ ちょいとこちらを向きやんせ こっちに立派な息子がいるヨホホイホイ」 突然、錦糸町櫓(誰や、そんな名前決めたんは)の方から声がした。 早すぎる音頭のテンポを逆手にとって二拍子に一拍のやや遅いテンポで歌い始める。マイクはやや遠目で肉声を聞かせるつもりの響きは音声の割れもなく、河内櫓にもきれいに届いた。 「秋君!」 河内櫓、そして周りの人々皆が驚いた。 「何と そっちにいるは愚息の得丸 何で東京に肩入れするかな ヨホホイホイ」 よせばいいのに、思わず雪丸は得丸の唄に返してしまう。大阪人の売られた喧嘩は買ってしまう、ボケにはツッコむ、ネタを振られれば思わず返してしまう習性を知り尽くした秋のやり方にまんまとはまってしまったのである。 しかし、河内櫓のテンポは相変わらず速く、にぎやかである。それに対して、秋はたった一人、取りにくい遅いテンポで歌い続ける。しかも新聞詠みはやったことがないのにもかかわらず、父親とのやりとりである。相当不利な状態であった。(不利、って何が?) 「みんな! 得丸君の唄に合わせて踊るんや!」 それまで為すすべもなく佇んでいた貞子が叱咤した。その声に、踊りを忘れていた隊員は二つの河内音頭の中、錦糸町櫓の若い声に合わせて何とか踊りだした。 「霞ちゃん! 何処行くんだ!」 駆け出しかけた霞の腕を、冬哉は掴んだ。 「櫓! あんなん、秋君一人で唄ってかわいそうやんか! 私みたいなんが行っても足手まといになるかも知れへんけど……放っとかれへん!」 「俺より奴を選ぶのか!」 冬哉の言葉に、一瞬霞の櫓への引力が弱まった。しかし、次の瞬間には、また駆け出した。思わず冬哉は手を離してしまう。 「秋君がどうのこうのやのうて……こんな状況で、三味線弾けるのに、なんもせんとただ黙って見てられる性分やないねん。私は。……確かに、秋君にひどいことしてしもた、っていう罪悪感が私を動かすんかもしれへん。そやけど、この、私の気持ちは佐々木さんのことを好きや、って言う気持ちとは全然違うねん」 「な、何を言ってるんだ? 何で大阪弁なんだ? 何だって、みんな、そんな一時の雰囲気に流されて、自分が見えなくなって、俺をおいて行くんだ?」 こらえきれなくなった冬哉の辛い言葉に、霞は一瞬躊躇した。 そして、冬哉の腕を掴んで櫓に歩き出した。 「な、何をするんだ!」 「一緒に行きましょう! 行って、それでも面白くなかったら、しゃあないから帰りましょう! こんな強引なことでもせえへんかったら、佐々木さん、河内音頭の何がおもしろうてみんな踊ってるんか、判らへんまま、人生の楽しみの半分知らへんまま、行ってまうでしょ? それでも、私のすることを黙って見ててくれるとは思いますけど――私、そう言うことに対する魅力を全く感じひん人、黙って見てられるほど――こういう時に黙って見てられるほど大人しい人間とちゃうんです。実は!」 何かを吹っ切れてしまった霞は嬉しそうだった。好きな人と、好きなことを共有する。日頃の霞ならば、それでも相手に対する配慮からここまで強引になることはないのだが、この状況で冷静でいられるほど霞は河内の血を棄てきれなかった。そもそも棄てるつもりはなかったのだろうが。 訳の判らない強気の発言に、冬哉は反対するだけの強さを持っていなかった。 「おやまあこちらは助っ人さん 歌い手に徳があるからねヨホホイホイ」 「何を言うやらみかんやら 未熟ではたから見てられんからじゃ ヨホホイホイ」 雪丸、得丸の親子はまだ掛け合いをしていた。要は親子喧嘩が河内音頭になっているだけなのに幾人かは気付いていた。しかし、混ざり合う二つのテンポになれつつある人は、ひたすらに踊り続け、唄の内容など気にしていなかった。 秋の唄に三味線が入る。 秋は霞を見た。感謝のこもった、優しい目をしていた。霞は秋の信頼に応えようと、慣れないテンポに必死に合わせる。 冬哉は霞の勢いに押されて櫓に上がったものの、お囃子をつける気もなし、当然歌えるはずもない。 と、恋敵である秋が、自分にマイクを向けて、「エヤコラセードッコイセ」と言う。お囃子をつけろ、と言うのである。 何でお前なんかの手伝いをしなくちゃいけないんだ、と言いかけた冬哉は秋を見て言葉をなくした。 当然、櫓の上に冷房装置があるわけがない。そして、照明である。風は不幸にもない。そんな状態で必死で唄う秋は、当然汗だくであった。しかし、自分がどんな状態であるかは全く気にせず、父・雪丸の言葉に耳を傾け、自分はどう返すか必死で頭を巡らし、時には踊っている人達の様子を伺う。 そこにいるのは「得丸」であった。 どう見ても、今の自分は得丸に負けている。自分は歌い手ではないのだから、負けて当然、と考えてしまえばそれまでなのだろうが、櫓の上、と言う特殊な場所がそうさせるのか、冬哉は男としての格が得丸に劣っているような気がして悔しかった。 高い櫓から、踊り人達を見る。貞子がいる。一心不乱に踊って、自分の息子が櫓の上にいることなど全く知らない様子である。ふと、視線を感じて横を見た。三味線に少しは余裕がでてきた霞が嬉しそうに冬哉を見ていた。お囃子をつける、と信じて疑わないらしい。 「河内音頭の楽しさは 全国共通 ヨホホイホイ」 「アーエヤコラセードッコイセ」 霞と一緒にマイクに近づき、声を出した。 一旦堰を外すと存外に恥ずかしさなど消えてしまうものである。 「東京人の中味なし 河内魂入ろうわけない ヨホホイホイ」 「そうは言うても一座の皆様 楽しみ踊って ヨホホイホイ」 「そしたら東京ええとこかいな 住んだら都か ヨホホイホイ」 「やっぱり住むには河内かな そやけど唄えば ヨホホイホイ」 「全然答えになってへんやないか 何で東京に肩入れするかと ヨホホイホイ」 「東京東京言うよりも 河内音頭がおもろい ヨホホイホイ」 それは、不思議な情景であった。 河内音頭、いや、盆踊りの歴史的出来事として代々語り継がれるものとして残っていくであろう。 二つの櫓と二つの音頭が違うテンポで唄われながら、かみ合っているのである。昔はこんな風に二人の歌い手が掛け合いのように音頭を唄うことはあったが、それでもこんなにテンポの違うものではなかった。 踊り手も、最初は戸惑ったものの、自分に合うテンポを見つけだすと、それに従うことでより自分に適した踊りを踊ることができた。最初は全く入り込めなかった河内櫓の音頭にも、適応力の高い若者達が加わり、素人踊りではあるが、楽しげな縦ノリ踊りを始めていた。 飛ばしすぎで、雪丸の声がしわがれてくる。 「それでは一座の皆様 おつきあい下さり」 「有難うございます」 雪丸の体力の限界が見えてきたことで、得丸は気を使って終わらせかけたところ、雪丸はそれに乗ってきた。 雪丸としては意地でもやめたくなかったところだが、慣れない新聞詠み、しかも掛け合い音頭は初めて、さらに長距離の移動の直後、と言う様々な要因で体力が落ちていたので、不本意ではあったが、得丸の申し出に従うことにした。 「何や、雪丸はん! もう終わりか!」 ほとんど気力だけで太鼓を叩いていた山下がたきつけるように言う。 周囲は拍手喝采である。 そうやって持ち上げられてしまうとその気もないのに反応してしまうのが河内人の悲しさである。雪丸は嬉しそううに両手を上げて声援に応えた。 「霞ちゃん……佐々木さん、有難う」 得丸は櫓をおりるとき、二人に声をかけた。冬哉にまで有難う、と言うのにためらいがあったが、久しぶりに櫓で唄って気分の良い状態で、思ったより素直に声がでた。 「得丸君、かっこよかったで。ね、佐々木さん?」 霞も久しぶりの三味線弾きを終え、プレッシャーから開放された気分良さで明るく言って、冬哉を見た。 「……まあ、な」 「櫓の上も、なかなかいいモンでしょ?」 「……毎年しようとは思わんがな」 正直、お囃子が乗ってきたとき、こういうのも悪くないな、と思っていた。しかし、それを口にしたら、待ってましたとばかりに貞子が自分を隊に入れようとあの手この手を使ってくるに違いない。 得丸はすぐさま河内櫓の方に駆け出した。 何とか話をまとめなければ、と機転を利かした錦糸町会長と健治は駆け出した得丸に声をかけようとしたが間に合わなかったのを見て、取り敢えず櫓にのぼり、マイクを握った。 「えー、本日は本場河内の方から助っ人に来ていただきまして……」 櫓をおりかけていた雪丸はそのやり口に頭の線がブチ切れ、もう一度櫓にのぼってマイクでやり返そうと思った。 「おとん!」 その雪丸の足を秋がつかんだ。 「何しよんねん、この、裏切りモンが! 東京モンの手のモンが、わしに触んな!」 「ええ年して、何を大人げないことしとんねん! もう、ええやろ! おとんの唄は東京でも充分通用する、って判ったやないか!」 「何勘違いしとんねん! そんなことが目的で、何でわざわざこっちに来るんや! あいつらを、コテンパンにしたらな、アホやから、判りよらへんのや! はなさんかい!」 「雪丸おじさん!」 霞が雪丸に声をかける。雪丸は、自分に親しげに声をかける錦糸町櫓の三味線弾きを胡散げに見た。 「私です。中野霞です。お久しぶりです」 「中野、ってお師匠の……おお、霞ちゃんか! おおきなったなあ!」 こうなっては単なる親父である。雪丸は懐かしい思い出に浸りながら櫓をおりた。秋はホッとして感謝の目で霞を見た。冬哉は仕方なしに霞について来たものの、居心地が悪くて仕方がない。 「冬哉、どないしたん、お囃子なんかつけて!」 またもやややこしい人の登場である。貞子である。冬哉は逃げ出したくなった。しかし、この人込みの中、そうそう軽いフットワークでは活動できない。 錦糸町櫓では、会長と健治の苦しい解説が終わった後、河内音頭が再開された。 「得丸君も、何やかんや言うて、一番ええとこ持っていったやないの! いやー、かっこよかったなー。うち、惚れてしまいそうやわ!」 貞子が嬉しそうに言う。その言葉に、冬哉はますますげんなりした。一方、言われた等の秋の方はこの手の言葉は聞き慣れているらしく「そうですか?」などとにこやかに答えていた。 「で、霞ちゃんは何で錦糸町櫓におったんや? もう、東京モンになってしもたんか?」 「そういうんやのうて……みんな楽しめるのが、一番ええんとちゃいます? まあ、嫌いなモンは嫌いでしゃあないと思いますけど……」 「やっぱり、おかあはんと同じこ言わはんなあ。いや、お師匠さんも一緒に来てもらおう、思って声かけたんやけど、そう言われて、来てくれへんかったんや」 若いおなごと話している、と言う状況がそうさせるのか、兼雄の表情に軟らかさが戻ってきた。 「いやっ! 雪丸さん! さすが河内音頭一筋六十年、見事な唄いっぷりでしたねー! ケンカ売られたときは憎々しいてしゃあなかったけど、こうなってみると、見事としか言いようがありませんわ」 突然貞子が兼雄と霞の会話に割って入った。霞は貞子のそう言うところは判っているので何とも思わなかったが、兼雄はかなり機嫌を損ねたようであった。 「あんた、誰や?」 「ああ、雪丸さんの方からは初めまして、になるんかな? 関東河内音頭振興隊隊員、佐々木貞子、言います」 「東京の人か? それにしては……」 「もともとは河内の出です。ほら、そこにいる仏頂面の……あれ?」 貞子が指さしたところには、群衆がいるだけであった。 「あれ? 霞ちゃん、冬哉は?」 「え? あれ? ……秋君もいませんよ」 「あれ? ホンマや。何処に行ったんやろう……」 「何処に行った、って、そら、踊りに行ったんやろう」 兼雄は断言した。 秋についてはそれはあたっているかも知れないが、冬哉はそんなはずがない、と貞子と霞は思っていた。しかし、その喧噪の中、一体何処を探したものか、二人は茫然としていた。 「まあ、こんなところでぼんやりしててももったいないだけや。一緒に踊りに行こうか。この際や、関東の踊りがなんぼのもんか、見せてもらおうか」 兼雄も難しい、そしてやりがいのある音頭をこなしたせいか、妙に機嫌がいい。自分の息子が思ったより歌える事が判ったこともその機嫌良さの理由の一つであろう。 既に、河内陣は錦糸町櫓で群をなして踊っていた。しかし、今度は大人しい通常の踊りである。日頃の鍛錬のお披露目と思っているのか、様々な形の踊りを一曲毎に変えて踊っていた。隊員の一部は自分たちの踊りを踊るよりも新しい型を吸収したがり、河内陣の踊りを見よう見まねで踊っていた。 そんな輪の中に、兼雄達も加わった。 |
いよいよ最終章、14へ続く
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