河内音頭に抱かれて・9

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9 喜びとせつなさと

 その翌週は、秋はほとんど出張に出て、霞に会うことはなかった。
 その代わり、というわけでもないだろうが、霞は冬哉と食事に行くことが多くなった。更衣室を出たときに偶然一緒になったときは食事をする――そんな暗黙の了解が出来上がっていた。
 霞は、自分の気持ちが良く判らなかった。しかし、それ以上に冬哉の気持ちが判らなかった。もしかしたら自分に好意を持ってくれているのかも知れない、とは思うのだが、よく読めない表情と無愛想さが、その心をくじく。秋のように、考えていることがすぐ表情に出ればいいのに、と思う反対の心でその無愛想さがかっこいい、と思えてしまうのだから、勝手なものである。
 しかし、更衣室を出る時間を自分が冬哉に合わせるようにしているのと同じように、冬哉も自分が更衣室を出る時間に合わせているような節も感じられるのだから、ますます混乱している。それ以前に、憎からず思っているからこそ、夕食に誘うのではないのか? そして、その誘いに乗っていくのではないのか?
 そんな風に、沈黙がちな、しかし照れともつかない神妙な時間を楽しく、嬉しく思う一方で、いつも霞の心にひっかかっている人影があった。
 きっと、もう、今は秋君は私の一番好きな人ではなくなってる……。
 しかし、そう言い切ってしまうには、冬哉の気持ちが見えない。
 ――これは、きっと、言う他ないんだろうなあ……。
 思い返せば、生涯初めての告白になるわけである。

 週末、冬哉をデートに誘おうと思いつつも、霞はそれを果たせなかった。冬哉に週末の予定を聞いた段階で、某か予定が入っていることが判ったからである。半分ほっとした気持ちで、半分残念に思いながら「忙しいんですね」などと適当に話を切り上げた。
 そして、秋からの週末の誘いを、霞は蹴った。
 予定など、何も入っていなかった。冬哉とどこかに行くつもりだったから、当然であろう。 もちろん、秋がいやなわけではない。ただ、疚しい気持ちのまま、秋に会うのがつらかった。一緒にいれば楽しいのは判っている。幸せな気持ちにもなれるだろう。何よりも秋は自分を好いていてくれている。そのことが一緒にいてよく判る。
 しかし、秋と一緒にいるときの自分は、省みたときに恥ずかしくなってしまうような自分なのだ。自分がそんな人間である、と自分自身認めたくない自分。やたら滅法明るくて、果てが無い。呑気で、陽気で、どうしようもない。大阪の空気の中で違和感のなかった自分の姿がいやで、東京まで来て、まだそれに縛られている自分がいやだった。
 秋の存在で、そんな自分もそんなに捨てたもんではない、とは思うようになってきた。しかし、やはり自分は秋と一緒のときの自分よりも、自分をわきまえている冬哉と一緒にいるときの自分の方が好きになれた。
 これは、二股ではない。霞は自分にそう言い聞かせた。本当に、自分が本当に好きなのは、きっと冬哉なのだから……。
「あの……お茶でもどうですか?」
 梅雨も明け、夜になっても熱気が去らない季節に入った週末、残業、二人で食事をし、マンションまで車で送ってもらい――初めて、勇気を振り絞って霞は冬哉を誘った。
 冬哉はちらりを時計を見た。十一時半。
「じゃあ、一杯だけ」
 冬哉の返事に、霞は本当に嬉しそうな顔をした。
 車を駐車場の邪魔にならないところに停め、三階の霞の部屋へ行く。
 通された部屋は、物は多いがそこそこ整頓されている。家具や壁紙、絨毯やカーテンの色調が淡いベージュで統一されていて、インテリアに気を遣っていることが伺える。その中で、チェストの上にならべられたぬいぐるみがカラフルな色使いで激しく自己主張していた。
「紅茶でいいですか?」
「ああ」
 失礼かな、と思いつつも暇な冬哉は部屋を見回してしまう。
 と、その視線が部屋の隅テレビの横で止まった。
「お待たせしました。――? 何か面白いものでもありました?」
「あれ――三味線?」
 冬哉が問うと、霞は顔を真っ赤にさせて、小さく頷いた。
「会社の人には言わないで下さいね。――佐々木さんがそういう事言う人じゃない、っていうのは判ってますけど」
「ああ」
「でも、袋に入れてるのに、よく判りましたね」
「そりゃあ、判るだろう。あんな形、他にないがあるんだ」
 そう言われてみればそうだが、作者のような一般人には到底判らないと思う。しかし、冬哉の口調があまりに自信に満ちていたので、霞はその言葉をそのまま飲み込んだ。
「……それもそうですね。あ、お茶どうぞ」
 暫く、二人は気まずい沈黙を抱えたまま、お茶を飲んでいた。食器の音だけが、二人の間に交わされていた。
「私が三味線弾く事、お母様には……聞かれてるでしょうね」
「ああ。もっと練習に来るように誘っといてくれ、って言われたよ。上田は来てるらしい」
 想像はついていたが、初めて聞いた言葉に、霞はなんとも返事ができなかった。
 この間、そして今週末も自分を誘うとき、秋は一言も「河内音頭」と言わなかった。恐らく、自分が行きたくない、というのが判っていて、無理強いしないように気を使っていたのだろう。本当は、秋の気持ちとしては行きたかったのだ……。淋しいような、ほっとしたような、複雑な気持ちを抱えたまま、霞はもう一口紅茶を口に運んだ。
「――行きたくないんだろ?」
「え?」
「行きたくないんだったら、行かなきゃいい。だいたい、あっちの人間は強引すぎる、っていうか自分勝手な奴が多いんだ。いちいち言う事きいてちゃ、こっちの身が持たなくなる」
「……絶対行きたくない、っていう訳ではないんですけどね」
「――え?」
 冬哉は意外そうに霞を見た。予測していた反応で、霞は今の言葉を撤回しようか、とも思った。しかし、いま、冬哉の気持ちを汲んで否定してしまったら、これからもずっと自分の気持ちを偽り続けなくてはいけない事を思って、複雑な表情でテーブルを見ていた。
 霞の意外な言葉に、冬哉は戸惑いを隠せないまま、霞の次の言葉を待っていた。
「せっかく三味線弾けるんだから、その技を身につけたままにしておけばいいと思って……取り敢えず、三味線を持ってきたものの、此処は楽器禁止で――それに、三味線、って一人で弾いてても、あまり楽しくないんですよ」
「……」
「――で、でも、本気でやりたい訳じゃないんですよ。それに、振興隊の方々も、いい方だし、喋ってて楽しいんですけど、ずっと一緒にいるのはちょっと……佐々木さんのお母様もいらっしゃるのに、なんですけど……」
「いや……」
「でも、秋君はかなり本気だし……」
「上田は一緒に行こう、ってまだ言ってくるのか?」
「……別に、口にだしては……でも、週末、行ってるんでしょ?」
「ああ、みたいだな」
 そう言って黙り込んでしまった冬哉を、霞は違和感を持って見つめた。違和感――どうして変だと思うんだろう――そう考えたとたん、一つの答えが頭に浮かんだ。
「佐々木さん、もしかして、河内音頭嫌い……なんですか?」
 単なる質問のつもりだったのに、思わず悲しそうな声になってしまった。しかし、その言葉の悲しみを感じ取ったのは、冬哉だけであった。
 そんな、悲しい響きに、冬哉はどこかで同じような言葉を、同じような声で聞いた事があるような気がした。――しかし、そんなことは御都合主義者の小説に出てくる単なる偶然にすぎないと思い、その考えを頭から振り払った。
「いや――別に、河内音頭が嫌いな訳じゃない」
 あの、傍若無人で、自分と自分の身内のことしか考えず、知らない人を身内に引き込んでしまう強引な連中が気に食わないだけだ。
「でも、佐々木さん、秋君に声をかけたとき、嬉しそうな顔をしてたじゃないですか」
 霞と秋が仲が良かった事は、冬哉にとって、大きな誤算だった。そして、自分が霞に好意を抱いてしまう事も……。
「苦笑いだよ。おふくろは言ったら聞かないから。まあ、上田がどんな奴か判らなかったし」
「それは……秋君が気に入らなかった、って事ですか?」
「まあ、中野さんを好きになった、って言う点では高い評価をしてしかるべし、だと思うよ」
 冬哉の言葉のその内が判らず、霞はきょとんとした。
「だが、自分と相手がつりあうかどうかをちゃんと判ってないあたり、どうしようもないか、とも思う」
「す、すみません。佐々木さんの言ってる事の意味がよく判らないんですけど」
「……つまり、中野さんには、上田みたいな、自分のペースに相手を巻き込むタイプよりは、俺みたいな相手を受け取めるタイプの人間の方があってるのに、それが判ってない、ってことだ。その認識ができてない分、未熟だな、と思ってるんだ」
「……」
 さすがに、今度は霞は冬哉が何を言っているか判った。そして、自分が冬哉の言葉に何か返事を返さなくてはいけない事も判っていた。しかし、想像していた可能性の低い事柄が実現してしまった事に対する恐慌状態で、霞は何も言えなかった。
 何も言えないまま、霞は一瞬顔を上げたが、まだ冬哉が自分の目を見ているのに気付くと、慌ててまた目を伏せた。
「本当に、そういうタイプの方があってるかどうかは、中野さん自信に判断してもらう事になるだろうけどな」
「……それって――」
「ん?」
「それ、って、私とつきあいたい、って事ですか?」
 自意識過剰でありませんように、笑われませんように、と願いつつも、心の何処かで「そういう訳じゃないけど」という返事を期待して霞は言った。
 冬哉は、一呼吸おいて笑った。今まで見たことのない、優しい笑顔だった。初めて見た冬哉の表情に、霞は胸が高鳴っていくのを感じた。
「そうだな」
「わ、私の何処がいいんですか?」
「返事してくれたら、教えてあげる」
「そ、そんな、佐々木さんみたいな人なら、もっと綺麗で大人っぽい人の方が似合いますよ。絶対!」
「……自分でもそう思って、そういう人とつきあってた事もある」
 さらっと言った冬哉の言葉に、霞はひどく傷ついた顔を見せた。
「聞けば傷つくくせに、そんな風に自分の事を卑下するもんじゃありません」
 冬哉は笑って霞の額を人差し指でつついた。
「でも、そんな、佐々木さんが私の事を――」
「だから、俺は中野さんが好きだ、って言ってるだろ?」
「……いえ。言ってません。聞いてません」
「あれ? そうか。じゃあ、もう一度言おうか――俺は、中野さんが好きだ」
「……」
「そして、もっと中野さんの事を好きになりたい。だから、つきあって欲しい」
「……」
「俺の事は、嫌いか?」
 冬哉の言葉に、霞は慌てて首を横に振る。半分、泣きそうな目をしていた。
「じゃあ、好き?」
 戸惑い乍ら、ぎこちなく、それでも霞は頷いた。
「もし、返事を保留したいなら、それでも構わない。慌てる気はない」
「つきあうのが嫌な訳じゃないんです。でも――」
 次の言葉をためらって出せないでいる霞の様子に、冬哉の眉間に陰が走った。
「――上田、か?」
 霞の表情に動揺が走る。その態度に、霞の言葉をきくまでもなく、冬哉は溜息を吐いた。
「上田と会わなくなるのは、辛いか?」
 冬哉の言葉が意外だったのか、霞は疑問符を顔いっぱいに出した。
「後腐れなく、友達でいましょう、って感じにはならんだろう。あっちの人間は執念深い。よほど話をうまくつけない限り、決裂状態になるのは目にみえている。そうなるのは、辛いか、と聞いているんだ」
 少し厳しくなった冬哉の口調に怯えた様子を見せながらも、霞は頷いた。冬哉は渋い表情を浮かべかけた。
「……俺としては、もう二度と上田とはあって欲しくないところなんだが……」
「ど、どうしてですか?」
 自分の好きな人間同士はきっと好きあうに違いない、という楽観的人間学の考えに生きてきた霞にとって、冬哉の言葉は考えられないものだった。
 そんな考え方の相違に気付いたのか、冬哉は軽く溜息を吐いた。冬哉にとって、霞のそんなお気楽で明るいところは、愛想がついてしまうところでありながら、好きになってしまった原因でもあるのだ。
「そういうことを、俺に言わせるつもりかな……」
「え?」
「まあ、いい。ひとまず、上田には俺の方から言っておく」
「え、でも、私の問題なのに……」
「できることなら、中野さんには上田とは口をきいて欲しくないし、そんな場面を想像するのもいやだ」
「……それ、ってどういう意味ですか?」
「多分、君が思っているより、俺は嫉妬深い男なんだよ」

 暦は七月の終わりを告げようとしていた。耐え難い猛暑の中、秋は営業にあちこち飛び回っていた。週末は取り敢えずあいてはいたものの、霞にどこかに行こうと誘っても色好い返事が返ってこないことを見て取ると、一人で河内音頭の練習会に顔を出しに行っていた。
 一方、霞の方は煮え切らない気持ちを抱えたまま、冬哉に誘われるままに週末を二人で過ごしていた。秋の事はずっと頭に引っかかってはいるものの、冬哉に「俺から言っておく」といわれ、変に口をはさむよりは、と関係を放置していた。
 そんなこんなの一ヶ月であった。
「ごめん、遅れて。私の方から誘ったのに」
「いんや。そんなに待たへんかったで」
 霞が駆け込んできたのを見て、秋は嬉しそうに笑った。会社でも殆ど顔を合わせない今の状態にあって、突然目に入った秋の笑顔は、霞の心に灯をともした。思わず笑い返してしまう。
 寮からほんの十分ほど自転車で行ったところにあるファミリーレストラン。土曜日の夜ともなれば、人でごった返していて、晩の十一時になってもざわざわとしたにぎわいが消えようとしない。
 霞は、昼間は冬哉と会っていた。しかし、秋に会うことは一言も言わなかった。
 自分のことは、やはり自分で片を付けなくてはいけない、といつからか決意していた。
 やってあげる、と優しく言われて、その言葉に素直に従ってしまうほど、霞はヤワな娘ではなかった。
 二人とも夕食は済ませていたので、霞は「太るかなあ」と言いつつケーキセット、夕食を済ませたから軽く、と言いつつ秋はスパゲッティを頼んだ。
「ゆっくり話せるの、って一ヶ月ぶりぐらいかなあ」
 注文を済ませて暑いなあ、とお冷やを口にしながら、扇子で顔を扇いで秋は言った。そうやね、と霞は嬉しそうに言った。
 霞にとって、秋の顔をまじまじと見れることは嬉しかった。今日は、別れの――といっても、もともとつき合っていたわけではないので別れとは呼びにくいのだが――為に会ったというのに、久々に会えた、話せた、というだけで心が弾んでしまっている自分が、自分でも予想外であった。
 もしかしたら、本当は、自分は秋のことが好きなのかもしれない、と霞は一瞬考えた。しかし、そんな考えを頭に浮かんだ冬哉の姿が打ち消した。
「煙草、ええ?」
「うん」
 扇子をたたんで、秋は煙草に火をつけた。煙を吐きながら、嬉しそうに霞を見ている。その視線がまぶしくて、思わず霞は顔を伏せた。
 たわいのない話が口をでる。相変わらず秋は大阪弁バリバリで、霞はそれにつられてしまう。それも今日で最後なのだ、と妙に感傷的な気持ちになって、霞は時折泣いてしまいそうな気持ちになった。
 そのうち、ケーキとスパゲッティが来て、暫く沈黙の時が過ぎた。
「秋君、まだ河内音頭行ってんの?」
「ああ。霞ちゃん、俺の相手してくれへんし」
「私と一緒やったら、行かへんの?」
「行きたいないんやろ?」
「秋君は、行きたいんやろ?」
「……俺は、霞ちゃんと河内音頭やったら、霞ちゃん取んで」
 秋の言葉に、心の何処かが喜んでいる。人から好かれることが気持ちよくないはずがない。しかも、自分がほのかに好意を寄せている人からならば、なおの事だ。
 憂いのある喜びを見せる霞に、秋は真面目な視線を投げた。
 ――ここは、俺が話を持っていった方がええんやろうなあ。
「でも、私は、私のせいで秋君が自分のことをおろそかにするのは……」
 秋は、自分の髪の毛をくしゃ、っと掴んだ。気持ち的には、本当は、霞の頭に触れたかった。霞の頭をくしゃくしゃ、っと撫でて、自分の気持ちを伝えたかった。うまく伝えられる自信もないし、自分自身、どんな気持ちでいるのか判っていなかったが、きっと霞なら判ってくれると思っていた。
「俺は……河内音頭なんか、どうでもええねん」
 両手で髪を掴んでうつむいたまま、秋はぽつりと言った。
 霞は、秋の言葉にショックを受けて、茫然と秋を見ていた。
「そらまあ、確かに俺を形作るアイデンティティーの一つではあるけど……そんなんより、霞ちゃんの方が、俺の中では大きいねん」
 恐らく、言う程霞の気持ちは自分から離れていくだろう、という予感はしていた。しかし、言わなくても、きっと自分と霞はうまく行かないだろう、行って仲のいい友達止まりだろうと感じていた。そう考えることで湧き出るせつなさが、秋の口を軽くした。
 霞は、答えなかった。
 それに応えることのできるだけの気持ちを、持っていなかった。それどころか、本当は、今日は、もう二度と会わないことを言うために会ったのだ。
 しかし、こんな秋に、別れの言葉は言えなかった。
「俺は……もう、霞ちゃんの心の中では、一番ではないんやな……」
 思いもよらない秋の言葉に、霞は言葉をなくした。
 霞が即答しなかったことで、秋は自分の言葉が正しかったことを再認識した。そして、自分の心がさらに沈んでいくのを無気力に眺めていた。
「もう、言うてくれへんのか? 『そんなことないよ』って……」
 霞は沈黙しか返せなかった。
「ホンマのことやから、否定でけへんのか……」
「ごめん」
 ようやく、霞はそれだけを口にした。
「謝らんといてくれ。その分、俺が情けないような気がするし、霞ちゃんのせいやないのに、霞ちゃんが悪いような気がする」
「私が……悪いねん」
「そやから、それを言わんといてくれ。そんな、実入りのない話するぐらいやったら、何でそないなってしもたんか、解説してくれた方が、俺としては有難い」
 そう言って、ようやく秋は顔を上げた。憔悴しきった顔がそこにあった。霞を見ずに、断りもせず、煙草をくわえる。火をつけるライターを持つ手が、僅かに震えているように、霞には見えた。
 折良く話が進んでくれている、というのに、このままうまく説明すればいいというのに、霞は次の言葉を出すことができなかった。
 何も言えないまま、霞は秋の吐き出す煙が空中に拡散していくのをぼんやりと眺めていた。
「俺……見てしもたから……」
「え?」
「……ホンマは、何も言わんとこう、と思ててん。あんまりカッコようないしな。そやけど……」
「見た、って……何を?」
「もう、霞ちゃん、俺と会わん気なんか?」
「……」
「それは、ないよな。これからも、友達として……そら、俺は、ちょっとぐらいは霞ちゃんのこと好きでいつづけるかもしれへんけど……会えるよな?」
「……」
「我ながら女々しいとは思うけど……」
「……見た、って……何を?」
「……法事に行って、俺がおれへんかったときあったやろ? その日、晩に霞ちゃんとこ行ったんや。お土産あげよ、思てな。そこで……霞ちゃんが、佐々木さんの車から降りてるとこ、見てしもた」
「……」
 マンションの扉のノブにかけてあった雷おこし。袋の中に入っていた秋の短い伝言。それを見た瞬間、冬哉一色だった心が罪悪感に苛まれたことを霞は思い出していた。
 しかし――まさか、見られていたとは思ってもいなかった。
「今、霞ちゃんの心の中で一番なんは、佐々木さんやねんな」
 霞は返事をしなかった。秋はそれを肯定と受け取った。溜息をつくように、煙を吐く。
「……全然、タイプがちゃうやん」
 決して抱くまい、と心に決めていた怒りが沸々と腹の奥から吹き出す。それをごまかすかのように、煙草の灰を落とす。
「え?」
「佐々木さんと、俺――全然タイプちゃうやん。そやけど、霞ちゃんの中では、似たような感じで好きやったんか?」
「……判れへん……ごめん」
「そやから、謝らんといてーや」
 秋の苛立った口調に、霞は何も言えなくなった。
 本当は、気がよくて優しい秋が、攻めるような口調になっているのは、自分のせい以外の何者でもない。今の自分は、この秋の苛立ちを、全部受けなくてはいけない理由があるのだ。
「……それが、佐々木さんと俺の違いが、つき合うに至るまでと、そうでない場合との違いか……」
 爆発しそうだった怒りを、秋は悲しみにすり替えた。
「そやけど、佐々木さんに会わへんかったら――」
「ええ。もう、ええ。そんな、すぎた夢物語は聞きとうない。霞ちゃんは佐々木さんに惚れてしもた。俺は振られた。それで、ええ」
「……」
「ただ……せめて……霞ちゃんの気持ちの中で、友達としてでも、俺が……」
 その言葉に嘘はなかったが、どうしても霞に「裏切られた」という気持ちが重石となって、言葉を最後まで続けさせなかった。
「それは……私は、会いたいねんけど……佐々木さんが……」
 その状況にあって、たとえ嘘をついたとしても言ってはいけないことを、霞は言ってしまった。秋は、霞を強い視線でにらみつける。自分の言葉の不用意さに、霞は顔を伏せた。
「俺やったら、俺やったら、ホンマはそうやけど、本心としてはそうやけど、彼女に惚れてる男に彼女に『会うな』なんか言わへん。彼女がその人と会いたい、って言うんやったら、そんなこと、言わへん」
 秋の怒りはもっともだ、と霞は何も言えなかった。
「そんな人が、ええんか」
 もう、霞は自分のことを気にかけてはくれないだろう、と秋は半ばあきらめたような気持ちになっていた。その事を信じたくない心がまだ暴れていたが、自分自身に言い聞かせるためにも、ここで霞と決別してしまわなくてはいけない、と決意を抱いていた。
「そんな人で、ええんか」
「……」
「ホンマに、俺と違う人やねんな。俺と、全くタイプの違う人やねんな。霞ちゃんは……東京にあこがれてるから、大人びた、気障な会話ができる人がよかってんな」
「……」
「俺……霞ちゃんがそう言う人や、っていうの、判ってたけど……そういうとこ持ってるくせに、大阪のこと、ちょっと照れてそんなこと絶対口にせえへんけど好きなとこ……判ってたから……判ってたような気がしてたから……好きやった」
 これ以上何を言っても惨めな気持ちを膨らませるだけだ、と秋はちらりと伝票を見た。霞はその秋の動きに、今止めなくては秋が行ってしまう、と判ってはいたものの、留め立てする言葉が浮かばなかった。
「霞ちゃん」
「?」
「どっちから先に、好きになったん?」
「秋君と、佐々木さん?」
 こんなシーンになってもボケを(これは天然だろうが)かましてくれる霞に、思わず秋は微笑んだ。
「霞ちゃんと、佐々木さんと」
「……佐々木さんが、いつ私のこと意識したのか、よく判らない……から。つき合ってくれ、って言ったのは、佐々木さんの方」
「……そうか」
 秋は財布を出して、お札を出す。二人分を支払ってもまだお釣りがでる金額だった。
「釣りはええから」
「秋君!」
 立ち上がる秋に、思わず霞は声をかけた。動きを止め、自分を見る秋に、かける言葉はまだ決まっていない。
「次も……友達で、会えるよね?」
「……。俺は、それでええよ。佐々木さんが何も言わなければ」
 秋の言葉に、霞は何も返せずに、立ち去る秋の背中を見送った。
 秋は、振り返らなかった。いつもなら、何度も何度も、人にぶつかったりしながらも、振り返って手を振って微笑んでくれたのに、今日は拒否の背中が自分を攻めるだけだった。
 自分で決めた別れなのに、冬哉に止められていながら自分で押し切った別れなのに、霞は視界が歪んでいくのを感じた。

恋愛模様混戦中のまま10へ続く
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