河内音頭に抱かれて・8
8 恋と愛の間 週末の雨は少し気分を憂鬱にさせる。週末になんの予定も入っていない、となれば特にだ。こんなことなら友達と遊びに行く約束でもすればよかった、とは思うのだがその手配すら面倒だった。 終わりそうで終わらない梅雨に軽く溜息を吐いて、霞は更衣室を出た。 「あ――お疲れ様です」 ちょうど、隣の男子更衣室から出てきた冬哉に、霞は声をかけた。 「あ、ああ、お疲れさん」 会社から駐車場までの一分ほどの道のりを、期せずして二人は一緒に歩き始めた。 「? 中野さんは車で来てるのか?」 「いえ。ただ単に、通り道なだけです。佐々木さんは車ですか?」 「ああ」 話が途切れる。最初はこの沈黙がただつらいばかりだったが、最近はこの沈黙を楽しむ余裕がでてきた。 ――が、そうそう黙っていられる霞ではない。 「二週間、有難うございました」 「いや――月曜日から、頑張れよ」 「言っても、また佐々木さんに泣きつくと思いますけど」 「ほどほどに、な」 「はい。じゃあ、今日はマンツーマン研修の打ち上げ、ということでどこかに食べに行きましょう!」 「ああ、いいよ」 思いもよらぬ肯定に、霞はぽかんと冬哉を見た。 「どうした?」 思わず立ち止まった霞に、冬哉は無表情に振り向いた。 七月に入って日は長くなってはいるものの、雨が降っていると七時ともなるとあたりは暗い。 「え……いえ……まさか、いいと言われるとは思っていなかったもので……本当に構わないんですか?」 「ああ。中野さんの方こそ、いいのか?」 「私は全然。待つ人のいない呑気な一人暮らしですから。じゃあ、いいんですね? 佐々木さんのおごりって事で――」 「おごり? ……まあ、いいか。判った。何処へ行く?」 「佐々木さんにお任せします。まだ私、この付近、判ってなくて。あと、佐々木さんの懐具合も判ってませんから」 「判った。――車だから飲みはないぞ」 「私が飲む分には問題ない、でしょ?」 「……ま、な」 「嘘ですよ。飲みませんよ。飲め、と言うなら飲みますけど」 「酔ったら口数増えそうなタイプだみたいだから、飲まなくていい」 「え……どうして判るんですか?」 霞の驚いた様子に、冬哉はやっぱりそうか、と薄く笑ったが、その顔は暗くて霞には見えていなかった。 紺のセダンに乗り込むと、柑橘系の芳香剤のにおいがふわ、っと広がった。 「いい匂いしますね」 「――ああ、煙草吸うからな」 一瞬、冬哉が何を言っているのか判らなかったが、煙草を吸うから匂い消しに芳香剤を入れている、と説明しているのか、と霞は合点がいった。 「ラーメンでいいか」 「いいですよ」 「……嘘だよ。うまい中華の店知ってるから、そこにしよう」 「で、ラーメン」 「……どうしてもラーメンが食べたいというなら、それでもいいけどな」 戸惑ったように答える冬哉の様子に、霞はくつくつ笑った。 「……何がおかしいんだ?」 「おかしい訳じゃないです。何ていうか――佐々木さんが喋ってくれるのが嬉しくて」 「……」 「仕事中だと、私が下らない事言っても、何も応えてくれない事が多いじゃないですか」 「まあ、仕事中は仕事中だから、な」 「……私、喋りすぎます?」 「ああ、そうだな」 「……」 「まあ、でも――今は構わんよ」 「おしゃべり、好きじゃないですか?」 「中野さん程にはな」 「でも、佐々木さんのお母さんはよく喋られるじゃないですか」 「……」 それまで沈黙を交えながらもぽつぽつと返っていた返事がなくなり、霞はまずい事を言ってしまったか、ときまり悪そうな顔をした。 「こういう話題、いやですか?」 「嫌といったら角が立つんだろう。喜んで、話を進めてくれ、って言うもんでもないけどな」 「……」 「――中野さんは、上田とつきあってるのか?」 「え?――え?」 ぼそっと言った冬哉の言葉が聞こえなかったわけではなかったが、まさか冬哉の口からそんな科白を聞くとは思っていなかった霞は思わず聞き返した。 しかし、冬哉は自分の言葉に後悔したのか、敢えて言い直そうとはしなかった。 「……そんなんじゃ、ないです。ただの友達――よりは仲いいと思いますけど」 一変して、静かに答えた霞に、冬哉は何も応えず黙々と車を運転していた。 「お母さんに聞いたんですか?」 「ん……」 冬哉としてはもう少し、探りを入れたいところだが、そんな話題をいつまでも引きずる自分がいやで、続きを訊ねることができない。 「どうしてそんなこと訊くんです?」 「いや、別に」 せっかくの機会を冬哉は自分でつぶしてしまう。 冬哉自身、これではいけない、と思い直す。 「こんな風に、連れ出してよかったかな、って思っただけだ。――煙草、いいかな」 「どうぞ。……でも、私佐々木さんになら、いろいろ連れていって欲しいですよ」 「……」 「え? 秋ちゃん、東京暮らしなん? スマップに会うた?」 「TOKIO見た?」 「いやっ、今度キンキキッズのサインもらって来てえや!」 「何で、東京イコール芸能人に会える、やねん。一体東京に何人住んでると思ってんねん。こっちにおったらいとしこいしにいつでも会える、って考えんのと一緒やぞ、それは」 「何やー、東京行ってる割には言葉変わってへんやん。『さア』『さア』言わへんの?」 「ふふふん、会社におる間は完全に関東弁やで。どっから見ても東京人や」 「見た目は変わらへんやろ」 「どうしようもないもんな」 秋の父、兼雄のさらに父――つまり、秋の祖父、の十三回忌と母方の祖母の三回忌を兼ねた法事は父方と母方の親戚が入り交じって「どないせい、っちゅうねん!」とキレそうな程のにぎわいとなった。 人数の問題ではない。濃さの問題である。 坊さんのお経、焼香を済ませ、お膳が配られてからは単なる「宴会」であった。(法事というものは概してそう言うものであるが) 「酒持ってこい!」と騒ぐ男衆。 その要求のあたふたと答えつつも、夫や子供や他の四方山話に花を咲かせ、けたたましい笑い声を立てる女衆。 そのうち、男衆の膳から手拍子の唄が聞こえてくる。 親たちの喧噪ぶりにあきれた子供達は部屋の片隅で話をしていたが、その集団もどんどん熱くなってくる。 が。 「何い? 東京? 誰や、東京の話なんかしとるんは! 東京なんか、いてこましたれ!」 兼雄の兄、本日の法事のしきり役となっている祐介が酔っぱらいの口調で(いや、酔っぱらいそのものなのだが)叫んだ。 「おう、そうや。おい! 得! 来い!」 あーあ、とうとう来たか――父の怒声に、秋は覚悟を決めた立ち上がった。周囲の従兄弟達の心配そうな視線に、笑って応える。 「もうかなり出来上がっとるがな。大丈夫か?」 「何ぬかしてけつかんねん、人を年寄り扱いすんなよ!」 年寄り扱いすんなよ、って――年寄りやないか。 秋はそうは思ったが、タチの悪い酔っぱらいの言うことをいちいち真に受けていては神経が持たないのは経験上判っているので、はいはいと大人しく従う。 「お前、何で東京行くねん!」 「まあ、世の中いろいろあるがな」 「何を判ったような口きいとるんじゃ、このチンコロが! 飲め!」 「はいはい」 「何や得、お前東京行っとるらしいやないか、何考えとんねん!」 祐介も勢いを増して言う。 「何を考えてる、って何も考えてないけど……」 「だいたい東京はなあ、田舎モンのくせに、外だけ飾ってゴマカしとる!」 「そや! だいたい東京は言葉がアカン! 男も女もオカマみたいな言葉喋りくさってからに」 「兼雄、女のオカマはおらへんぞ」 「何や兄貴、得の肩持つつもりか?」 「何でやねん。お前の揚げ足取っただけや」 「あいたー」 怒っていてもボケとツッコミはやめられないのでいまいち怖くない。酔っぱらい・怒りモードの兼雄一人が相手ならばぼこぼこにやられるだけだが、伯父、祐介がいると「怒り漫才」状態になるので、秋には少し有難かった。 「それで、盆と地蔵盆――いや、もう毎週末こっち帰って来れるんやな?」 次々と秋に酒を飲ませては自分も飲んでいく。次々とお銚子が空になる。あまりに次、次、と言うものだから、豪を煮やした女衆は一升瓶を持ってきた。 「おいおい、俺は燗にしてくれや」 祐介はこだわりがあるらしく、頼み込むように言う。 結局、兼雄と秋は親子コップ酒対決となった。 「そんなもん、毎週こっちに帰って来れる訳あらへんやろ。一体なんぼかかると思ってんねん」 「そしたら練習はどないすんねん。ろくすっぽ声出えへんような奴櫓に乗っけるほど、河内音頭は甘ないぞ」 「練習やったら向こうでもできる」 相継ぐ酒攻撃で秋もろれつが回らなくなってきている。 恐らく、素面ならばここまで反論せずに話を聞き流していただろうが、既に秋も酔っぱらいの仲間入りを果たしており、怖いものなしの状態に至りつつあった。 酔っぱらい達のこんな言い争いは見慣れたもので、特に誰も二人を止めようとはしない。どうせ明日には、二人とも今日のこの争いのことも殆ど忘れてしまうのである。 「そんなもん、何処で練習すんねん。会社の中か、寮の中か? 川縁で一人で唄うんか? それでも、何も知らん東京モンに、『それ、何て浪曲ウ?』とか、言われたり、『盆踊りの練習するなんて、変なのオ』とか言われるのがオチや」 「なんや、おとん東京弁うまいやん」 「あたりまえや! まずは敵を知らんかったら、勝負にならへんやろうが!」 敵、って……なんの? 勝負って、……何を?――様々なつっこみポイントが頭を巡ったが、さすがにこれ以上言うと激怒への道を走りだしてしまうことが判ったので、秋は黙っていた。 「百歩譲って、お前が敵状視察の為に東京へ行ったことを認めたるとしよう」 ……何でやねん。 「おれは死んでも東京へ行くのは嫌やからな。そやけど、現地へ足を運んだら、あいつらをコテンパンにのせる、っていうんやったら手助けしたるわ」 「何や得、やっぱりその為に東京行っとったんか。そうやと思ってたわ。さすがは我が甥、目の付け所が違うわ。切り込み隊長、ってやつやな」 「それで、何すんねん?」 「何する、って……話変わってんのとちゃうか……? まあ、東京でも河内音頭やってるとこあるんや。そこで練習させてもらってる」 困った話題を何とか秋は修正した。 「おお、向こうにも、そんな気骨のある奴がおったんか?」 「東京でも、消えへん河内魂――うんうん、ええ話や」 「……まさか、向こうの奴が勝手にやってる、っちゅうんやないやろうなあ」 ここでしらばっくれて「うん」と答えればいいものを、正直者はバカを見る。 「う……あ……」 「なにい! 東京モンがやっとるんかいな!」 「そ、そやけど、こっちの人もおんで」 フォローのつもりのこの科白で語るに落ちた、というものであろう。 「ちょっと待て得、お前そんなところにノコノコ顔だしとるんかい!」 「どの面下げてここに来とるんじゃい!」 もう、秋はぼこぼこである。彼自身の心にも、東京モンの集団と仲良くしている自分に対する疚しさを持っているものだから、言い訳のしようもない。 「いや、兼雄さん、秋君はスパイのためにそこに行ってるんやないか?」 にこにこと騒ぎを見ていた親戚の一人が助け船を出す。 そう言うつもりは毛頭ないのだが、ここで「うん」と言わなくては、熱血兄弟が暴れ出しかねないことは秋には充分判っていた。 「そうやねん、おじさん。まあ、俺はちょうど周り気にせんと歌えるし、奴らの下手な踊りにけちつけられる。それに、仲良うしといて、櫓に上がって盆踊りを無茶苦茶にすることもできる、って寸法や。だいたい、関東に河内音頭の魂である河内音頭ドームを作ろう、何てとんでもない計画――」 「なにい! なんや、それ! そんなん、聞いてへんぞ!」 うまく行きかけた流れは不用意な一言で消えた。 結局、秋は飲んでひっくり返るまで、説明といいわけと心にもない演技で自分を助け続けなくてはいけなかった。 疲れ果てた週末を終え、日曜日の夕暮れ、秋は霞のマンションを訪ねた。今まで、部屋の前まで送っていった事しかなかったが、疲れた心に、霞の笑顔が浮かんで消えず、どうしても実際に会いたくて仕方がなくなったのだ。 我ながら女々しいとは思うがそれも恋、作者の都合に会わせて動いてもらうほかない。 大阪土産、雷おこしを持って、秋は霞の部屋のベルを鳴らした。 返事はなかった。 仕方なしに、土産と伝言を残してマンションを出る。 ふと、マンションを振り向いたとき、紺色のセダンが夕闇に紛れるように止まった。 何か感じるものがあったのか、秋はそのままその車からでてくる人を見ていた。 黒く長い髪はきれいな編み込み。薄化粧は自分を少しかわいく見せるため。頬が赤いのは、夕焼けの名残か、頬紅か、照れか。 秋は、自分の見ている情景が、信じられなかった。信じたくなかった。反射的に見た運転席には見覚えのある男が乗っていた。 駆け寄っていくこともできた。そのまま逃げることもできた。しかし、秋はそのいずれも選択しなかった。ただ、突っ立ったまま、霞と車と男を見ていた。霞の、自分にだけ向けられていた筈の微笑みと、男の、想像もつかなかった優しい笑顔と、一人ぼっちでたたずむ自分と、どうしようもない気持ちで、動くことができなかった。 秋は、自分でも気づかぬうちに、自分の視線に霞が気付いてくれる事を待っていた。自分の視線に気付き、自分を見て、どんな顔をするのか、無意識のうちに秋は想像していた。 きっと、霞が自分に気付いてくれさえすれば、こんな自分の惨めな気持ちも晴れるはずだ、と、きっと、この情景は何か誤解を含んでいて、本当は笑い飛ばせるような理由で二人は一緒の車に乗っていたにちがいない、と知る事ができるはずだと……。 霞は、そのままマンションに入っていった。声をかけることもできないまま、視線を合わせることもできないまま、冬哉を見たまま、やさしい微笑みを浮かべたまま、別れ惜しそうな表情を浮かべて、去っていった。 ――その日、秋は眠れぬ夜を過ごすこととなる。 |
泥沼の予感を抱えつつ9へ続く
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