河内音頭に抱かれて・1

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1.その地に河内音頭ありき

 ズンチャチャ、ズンチャチャといったスイング調の音頭が生まれたのは太平洋戦争終了直後、その先代の先代の元祖とも呼べる河内音頭(その頃は交野節等別称があったともいわれるのだが)は、大正時代に生まれていたという。
 各盆踊りと同様に河内音頭も各地で微妙に異なる節と踊りを見せてきた。
 しかし、レコードの普及、歌い手の地方周り、更には河内音頭自体の衰退などにより、その独自性はどんどん失われていた。
 その一方、その全国展開により、等の河内人すらも驚かせるようなことが起きていた。なんと関東河内音頭振興隊なるものが発足し、年に一度、東京で河内音頭の催しを行われ始めたのだ。
 初代隊長楠木博は全くの東京人であったが、河内音頭特有のリズムに惹かれて活動を始めた。そして、隊員の多くも「河内」がどこを指すのか判っていないような関東出身の者が中心となっていた。
 
 
 「大阪人は東京を嫌う」
 未だその言葉にうなずく者は多い。
 東京の何がいやといって、理論的に答えられる者は少ない。
 「言葉がなんか気持ち悪い」(向こうにいわせりゃこっちも言葉については大きな顔をできないと思うが)
 「いきってる」(という意味が関東人には判らないと思うが)
 「生理的になんか好かん」
 そんな、生物的に改良のしようもない理由で東京、関東を嫌う。
 しかし、実際東京人と一緒の時を過ごして慣れてしまえばなんということはないに違いない、というのは柔軟な脳をもち、環境に臨機応変に対応しうる作者の勝手な思いこみであろうか。
 まあ、そんなことはどうでもよい。
 とにかく、河内人のそんな思惑を知ってか知らずか、関東河内音頭振興隊は年々増える河内音頭人数に気をよくして、「関東おんどーむ」なるものの設立を考え始めた。

 「関東おんどーむ」。

 その思想の元は河内長野にある。大阪人ですらその存在を知る人は少ない「河内音頭ドーム」。
 大規模の体育館のような空間のど真ん中に高さ十一メートルの三層式の櫓。
 人はここに集い、歌い、踊る。
 この河内音頭ドーム、一部の「三百六十五日、閏年には三百六十六日踊り三昧!」という期待にみちみちた意見と「そんなに踊りまくる人がいるはずもない」という冷静な意見の対立を見ていたが、当時の河内長野の市長のごり押しにより、作られた。

 ふたを開けてみれば年間操業日二百日前後という程々の盛況さを見せている。
 ただ、全てが河内音頭に用いられているわけではないところが最初から息巻いていた人々には不服のようだが、そんなことに文句をいうなら君たちが実際に毎日ドームを借りて踊ってればいい、という至極冷静な意見にぐうの音もでないようだった。

 そして、「関東おんどーむ」である。
 隊員がこぞって河内音頭ドームに踊りに行ったのがどうもその提案の原因らしい。
 雨風を気にせず、それどころか冬でも熱い踊りを踊れると知り、彼らの情熱はいやがおうにも増していった。
 関東河内音頭振興隊が中心となって行われている夏の錦糸町河内音頭はここ数年、数百人もの人数を集める所となった。既に隊からは離れ、錦糸町の自治体による運営が行われつつあるが、この「関東おんどーむ」の話を進めるにあたって、俄然熱気づいてきた。
 振興隊は大阪の河内音頭関係の団体、河内音頭連合や各種団体、現在の河内音頭に限らず、既に河内音頭とは袂を分けた形にありつつある江州音頭や流し音頭、ジャイナ節などの保存会にも話を持ち込み、日本盆踊り協会にまで話を進めた。
 日本盆踊り協会の会長、鈴木善一郎はこの話に大乗り気で、自治体の方にまで話を持っていった。
「一度その錦糸町河内音頭なるものを見せてもらおう」東京都知事がそう言ったのは春まだ遠い、冬のことだった。
 うまく進んでいくおんどーむ計画に人々は笑顔を作っていたが、当然そのような企画には反対者がつきものである。ついてくれないと話が面白くない。
 「東京モンが河内音頭やと? なにふぬけた事いうとんねん」
 「おんどーむやと? 何へたれたことぬかしとんねん。東京モンなんかに河内音頭の神髄が判ってたまるか!」
 河内音頭の神髄なるものがどういうものか、作者の知る由もないが、そのような意見が多々上がっていたのはやぶさかではない。ただ、そのような言葉は、はっきりとした妨害の形を取ることはなく、酒の上での戯言にしかすぎなかった。
 ――はずであった。

ようやく本題の2へ続く
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