呵々大笑 (かかたいしょう) 12

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12.それぞれの思惑

 絵梨の申し出でけい子は少し学校から離れたところにある喫茶店に入った。
「――雨田さん、家に帰らんでええんですか?」
 ウエイトレスに注文を告げると落ち着かない様子でけい子が身を乗り出さんばかりに言った。
「――結局、昨日、ずっとあの事に関する電話はかかって来なかった」
「――」
 絵梨の言葉に、けい子はトンル教の話を思い出し、妖しげな薄暗い部屋の中、妖しげな教徒に囲まれ生贄台の上で必死に泣き叫ぶたつやの姿を想像し、ぐっと唇をかみ締めた。
「昨日、啓司さんに誘拐の心当たりはある、って訊かれたとき、私が『ない』って答えたん、覚えてる?」
「え? いえ……」
「そう言うてん。嘘やねんけど」
「嘘、って……その、トンル教の事知ってるから、知ってるのに黙ってたから、っていう事でしょ?」
 絵梨は首を横に振る。
 けい子は絵梨の動きが何を意味するのか理解するのに時間がかかった。
「――へ? ……そ、それやったら、何で刑事さんに言わへんのです? ――雨田さん、雨田君のこと、心配やないんですか?」
 思わず声を荒げてしまったけい子に、絵梨は鋭い眼光をぶつけた。
 続けて絵梨の言動に対する不服を述べようとしていたけい子はその鋭さに、何も言えなくなった。
 けい子がおとなしく黙ったのを見てとって、絵梨はいつもの穏やかな表情に戻った。
「トンル教の生贄は――鳥井さんの情報に間違いがなかったら、女性しかおれへんねんて」
 けい子が安堵の溜息をつく。
「――連中の目的は、吉朗を立てに、私達の父親の行動を規制する事」
「――」
 思いもよらぬ絵梨の言葉に、けい子は口を開けたまま絵梨を凝視した。しかし、張り詰めた無感情の絵梨の瞳は何もけい子に伝えなかった。仕方なしにけい子は絵梨の続きの言葉を待つ。
「犯人の目星はついてる――けど、私としては、その人を警察に突き出すのは……避けたい」
「何でです?」
「吉朗の事は確かに心配や。ホンマは学校なんかに行ってる場合やない、っていうのも充分判ってるつもりや。寝屋川君にも――野際さんにも、悪い事したと思ってる」
「そんなん――誘拐は、雨田さんの責任やないやないですか」
「……」
 ふ、っと、絵梨はけい子を見た。そのまっすぐな瞳にけい子はギョッとした。弟を誘拐され、動揺する姉の姿は絵梨の中には見つけだせなかった。強い決意に心を固めた一人の人間の姿がそこにあった。その決意が何なのか――けい子は想像も出来ずに茫然と絵梨を見つめていた。
「……雨田さん……」
 絵梨がゆっくりと視線を逸らす。その視線の先に、トレイに紅茶セットを乗せたウエイトレスがいた。
「ごゆっくりどうぞ」
 そういってレシートを裏向きにテーブルの上に置くとウエイトレスは去っていった。
 絵梨は落ち着き払った様子でポットからカップに紅茶を注ぐ。けい子はせっかちそうな目つきでそんな絵梨を見ている。
「……もしかして、雨田君を見捨てるつもりなんですか?」
「――何で?」
 にっこりとほほえんで絵梨は答える。その微笑みが場違いなほど愛らしかったので、けい子は一瞬絵梨の正気を疑った。
「もしも、この誘拐が私の予想と違うもんやったら――そんな事はないと思うけど――おとなしく警察に任せる。それに――もしか、そうやったら、ホンマに善朗も、寝屋川君も危ないと思う。けど……もしも、私の予想通りやったら……相手は大物、下手するとこの誘拐の件ももみ消されるかもしれへん。――その辺は互いに互いを牽制してる部分があるけど……そやからこそ、その均衡を壊すのが怖い。……もしかすると、ホンマはものすごい善朗の事が心配で、警察に殴り込みにでも行って欲しいのかもしれへん。けど……敵に背を向けたくないから」
「――」
「――私や、善朗だけやったら、何とでもなるんやけど、寝屋川君まで巻き沿いにしてしもて……その事は許されへんと思う」
「――」
「……野際さんに、協力して欲しいねん」
「え?」
「その、誘拐犯が私の考え通りやったら、私がなんとかする。全責任は私等にうあんねんから。――けど、その誘拐犯が予想通りか、確かめてみるのに、ちょっと手を貸して欲しいねん」
「手を貸す、って……」
 けい子は怖いほどの真剣な表情で絵梨に訊ねる。思いも寄らぬその気迫に思わず絵梨は身を引いた。
「で、電話を貸して欲しいねん」
「……でんわ」
 さて、何をするのか、と意気込んでいただけに、その簡単な内容に気抜けした。
「別に……電話ぐらい、構いませんけど……何で自分ちの電話使えへんのですか? ――電話料金を払うのがいや、とか…」
「……。野際さん、それ本気?」
「え? い、いや……いや、判ってます! 判ってますよ! 刑事さんがおりはるからでしょ? ……そやけど……雨田さん、そないに落ち着いとったら、刑事さんに不審に思われたりしませんか? 普通、家族が誘拐されたりしたら、学校休んで家にいたりしませんか?」
「――そうやね。確かに。けど――後々行動する時に、出かけるのが不自然にならんようするためにも、今のうちからせいぜい弟不孝な姉でおらんとあかんから」
「――」
「――で、電話、貸してくれる?」
「それは構いませんけど……」
「今日はもう遅いから、明日にでも――」
「それは、その電話は、この誘拐に関係あるんですか?」
 勢い込んでけい子が訊ねる。絵梨は黙って頷いた。
「そんなん――明日、なんか呑気な事言うてええんですか? こんな事してる間にも二人が危ない目に遭ってるかも知れへんのですよ? いや……雨田君はまだ利用価値があるからええかもしれません。そやけど、たーくんは――うるさいし、じゃまやし、大食らいやし……なんといっても役に立たへんのやから、いつ殺されても仕方のない状態にあるんですよ? ――そら、大した奴やないし、うっとうしいのも判りますけど、いくらなんでもかわいそうやないですか」
 これだけ罵詈雑言を叩いておいてかわいそうもへったもないものだが、けい子は真剣だった。
「そうか……そうやね。寝屋川君が……」
 絵梨はかすかに顔をしかめた。責任を負うた者の顔を、けい子は真剣な眼差しで見つめる。
「じゃあ、今から野際さんの家にお邪魔させてもらうわ」
「はい」
 絵梨の決断の早さに、けい子はそんな状況でないにもかかわらず、思わず顔をほころばせた。
 

 受話器を置いた絵梨の顔はわずかに蒼ざめていた。けい子の待ちうける客間へと歩いて行く。
「――雨田さん……」
「明後日まで、少なくとも吉朗は無事。寝屋川君は……多分、大丈夫やと思うけど……」
「――明後日からは?」
「それは、父の出方次第」
 答えて、絵梨も畳に坐る。ゆっくりと頬杖を着き、二秒ほどでけい子を見た。その目に迷いはないように見える。
「――野際さんは……明後日まで待てる?」
「待って、どうなる、っていうんですか?」
 絵梨は答えなかった。
 ほんの数秒の沈黙に絶えかね、けい子は立ちあがった。
「お茶でも入れてきます」
「え、あ……有難う」
 珍しく思い悩んでいる様子のけい子の後姿に、絵梨は暗い表情を浮かべた。
 現在の状況、望むべく方向、自分のやるべき行動に思いを馳せつつ、合理的、計画的な頭脳の端で悲しい感情が渦巻く。その感情が膨らんで理性を呑み込みそうになるのを切り捨てる。
「――雨田さん」
 水滴を付けた冷たい麦茶の入ったコップを置きながら、けい子は絵梨に声をかけた。
 絵梨は自分が想像より想いにこもっていたのに驚きつつ、けい子を見た。
「二人が何処に監禁されてるか――判ってるんですか?」
「……判ってるとしたら、どうするつもりなん?」
「行きます。止めても無駄です」
 けい子はきっぱりと言った。
 予想通りの返事に、絵梨は無表情を崩さなかった。
 けい子の決断はかたい。その事は容易にとって見える。しかし、決意が堅いからといって、物事がうまく行くかと言うと、そうでもない。むしろ、気がせいて失敗するのがオチだ。
 艶やかに、絵梨は笑う。
「止めるも止めないも――私がその場所を言えへんかったり、嘘の場所教えたらおしまいやろ?」
「……」
 けい子は絶句した。
 素直ではないが単細胞なけい子にはそこまで頭が回らなかったのである。
「立ってんと、座ったら? お茶、もらうね」
 たった二つしか年の違いはないはずなのに、この余裕の違いは一体何処から出てくるのだろう、と思い乍らけい子は腰掛け、同じように麦茶を飲んだ。
「私も行くから。嘘の教えようないから、安心してええよ」
 あっさりとそう言った絵梨の言葉の意味が呑み込めず、けい子は怪訝な顔をした。
「行くとしたら、明日やね。鳥井さんにも協力してもらうし。――多分、そんなに危険な事はないと思うわ。向こうは私や野際さんの存在なんか、これっぽっちも気にしてへんやろうから――」
「あ、雨田さんも、行くんですか!?」
 驚いて叫び出したけい子の科白に、今度は絵梨が怪訝な顔をする。
「……一人で行くつもりやったん?」
「え、そやけど、雨田君は……」
「吉朗も助けたらなあかんやろ? 当然、寝屋川君も助けたらなあかんけど」
「――大丈夫なんですか? 雨田さんと私の二人だけで行けると思います?」
 さっきまで成功率など全く考えず勢いだけで「単身で乗り込んだる!」などと言ったこともさっぱり忘れてけい子は不安そうに訊ねた。
 絵梨はぽかんとけい子を見て――笑う。
「野際さん、人の話聞いてへんかったやろ」
「――え?」
「行くのは三人。――まだ決定はしてへんけど」
「三人、って……刑事さんですか? そやけど警察は介入させへん、って、今さっき言いはったとこやないですか」
 絵梨は苦笑いを浮かべた。――あの人、ってそんなに存在感ないかなあ……。
「違うんですか? そしたら誰です?」
「鳥井さん」
「鳥井さん、ってあの――雨田さんの隣に住んでる探偵さん?」
 絵梨は頷く。やっと判ってくれたのね、と言いたげな表情であったが、けい子はそんな絵梨の細かい感情の変化には気づきもしなかった。
「何で――協力する、って約束してくれたんですか?」
「日頃色々と恩は売ってあるしね。こういう時、プロが一緒にいてくれたら心強いし」
「それはそうですけど……」
 何か煮えきらない様子でけい子は呟く。
「とにかく――成功するか否かはさておいて、乗り込むのは乗り込むからね」
「……」
 成功するか否かはさておいて――って、成功せえへんかったらまずいんとちゃうんかいな……。
 けい子は反射的にそう思ったが、敢えて口には出さなかった。

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