呵々大笑 1

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  1.物語はいつも作為的に始まる

 明日に高校の入学式を控え、野際けい子は原付自動車に乗っていた。家でしている酒屋の下働きである。本来ならば兄の巧(たくみ)が行くべきビール運びであったのだが、その巧は「今日はデートだ!」と頭から羽根を生やして家を出て行った。父は宅急便関係の仕事でお出掛けである。母は自転車しかこげない。よっていけい子の出番となったのである。けい子は最初軽トラックで行くと言った。原付自動車ではビールケースを載せているとバランスがとりにくく、危険であるからである。しかし、母の大いなる反対でしぶしぶと原付に乗ることと相成った。
 けい子は稼業の手伝いを進んでする程できた子ではない。特に今日は、明日は入学式なのだからぐーたらしていたい、と言い張った。しかし、母、美弥の「誰のおかげで生きてると思ってるの?」というドスのきいた一言に反対するほどの気力はなかった。そんな訳で阿部さん宅へビールを届けてきたのである。
 軽くなった空瓶のケースを後部座席に載せ、白いママヘルをかぶってけい子は走っていた。原付は勾配のきつい坂にはいり、速度がぐんと遅くなる。けい子は顔をしかめ乍らアクセルを回した。
「――あ、あのー、すみません……」
 長い坂の丁度中程にいた暗い雰囲気の少年が恐る恐る、という風にけい子に声をかけた。
 急な坂で原付を止めるのが嫌なけい子は聞こえない振りをして走り去ろう、と考えた。
「あ、あの……道に迷っちゃったんです……」
 何とも情けない表情で言ったその言葉にけい子は大層脱力してしまい、思わず原付を止めてしまった。重心が後ろにある為、容易く後ろに下がろうとする原付のブレーキをかけ、降りて、スタンドで止めて振り返った。少年が嬉しそうな表情を浮かべてけい子の方に来た。 その時、けい子はあれ?と思った。そのような表情に見覚えがあるような気がしたのである。
 少年――少年とは言ってもけい子と同年代であろうか――は坂の傾斜の分を差し引いてもけい子より背が低かった。十センチ程差があるだろうか。けい子の身長が一七二センチと、女の子にしては背が高い方なので仕方がないことではあった。しかし、体重に関して言えば、少年の方が多そうである。少年は灰色のロゴの入ったトレーナーと洗いざらしのジーンズを着用し、裸足につっかけを履いていた。どう見ても散歩がてら、の雰囲気だが、どうしてそれで道に迷うのだろう、とけい子はぼんやりと考えていた。
「……けーこちゃん……?」
 嬉しそうな顔から不審そうな表情へと変化していった少年が唐突に口を開いた。少年の表情の変化に、何やこいつ、人の顔じろじろ見やがって、と攻撃的思考回路に切り換わりかけていたけい子は少年の一言で大恐慌に陥った。
「けーこちゃん、ちゃうんか? 野際さんチの? おれやおれ、たつや。寝屋川(ねやがわ)竜也」
 少年――寝屋川竜也は嬉しそうに自分を指さして言った。「たつや」。その一言でけい子の記憶の封印――と言ってもそう大したものではないが――が解けた。
「……たーくん?」
「そうそう!」
 たつやは非常に嬉しそうに言った。しかし、けい子は何とも複雑そうな表情であった。
 けい子とたつや。この二人はかつて幼なじみであった。家は二軒離れた隣、幼稚園、小学校では全学年クラスは異なっていたものの、近所のよしみで仲が良かった。――そう言ってよければ、の話。
 けい子は兄巧と共に腕っぷしが結構強く、負けん気も強く、ガキ大将的な存在であった。それに対し、たつやは何処かしらぼー、としていて気が弱く、少しいじめるとじわっと眼に涙を溜めて、反撃するなど考えもせず、じめじめといじけるような少年であった。
 けい子はしょっちゅうたつやをいじめていたが、いざ他の奴にたつやがいじめられると憤慨して仇を取りにいった。たつやはそれをけい子の優しさだ、と取ったが、けい子にしてみれば、やられたらやられっぱなしで泣き寝入りするたつやに苛立ちを感じていたのである。仇を取る、というよりはただ単に暴れたかっただけかもしれない。
 そんな、一種の平衡状態の中、二人は大きくなっていった。
 しかし、中学校に入る前に、けい子の父が酒屋をつくり、引っ越ししたのである。
 別れを惜しみ、涙すら流したたつや。やっとうっとおしい奴とおさらばだ、と満面に笑顔を浮かべて別れの手を振ったけい子。一つの美しい幼少の日々がそこで打ち切られた。……筈だった。
「けーこちゃん、大きなったなあ。おれ、中学校であんまし伸びひんかってん」
 相好を崩してたつやは言った。けい子は冷たい目でたつやを見た。けい子だって、好きで背が高い訳ではない。日に日に伸びる身長を目の前にして、どれだけ「伸びんな〜!」と祈った事か。しかし、今ではもう開き直るしかなかった。
「……あんた、全然変わってへんなー……」
 心から、けい子はそう言った。確かに、小学校六年生の頃に比べれば少しは背も伸びているし、声も顔も体格も大人への脱皮を始めていようとしているが、滲み出る雰囲気や喋り方などはそのままそっくり昔のたつやを思い起こさせるものだったのである。けい子は思わず溜息をついた。
「そうか? そんな事ないで。おれかて、もう高校生になるんやし。けーこちゃん、かわいなったなー。おれ、一瞬判れへんかったわー」
 あくまでたつやは能天気そうに言う。けい子は頭を抱えたくなった。一瞬と言わず、ずっと判らんかったら良かったのに、と反射的に頭の中で考えていた。
「そーかー、そういや、けーこちゃんもこの辺に引っ越ししたんやっけ」
「……も?」
 けい子の表情が歪んだ。顔が蒼ざめた。いやな予感が心に浮かび、鳥肌が立った。硝子でできた繊細な希望だけがけい子の支えとなっていた。
「おれもこっちに引っ越してん!」
 さすがに硝子はもろかった。それとも与えた衝撃が強かったのか。とにかく、希望はあっけなくけい子を見放した。
「父ちゃんが一戸建買うてな。丁度ええわ、って。高校もな、此処の――」
 けい子はこれが夢だったら良かったのに、と思った。さわやかな春の風も、ぽかぽかとした日差しも、ヘルメットの不快感も――全て夢であったら良かったのに、と思った。
「けーこちゃんは何処の高校なん? もしかして、一緒? けーこちゃん、頭良かったもんなー。ホンマはな、おれ、補欠合格やってん。高校入ったら大変やなー」
 ――何で山井高校入学を辞退する奴がおったんや! あほ!
 けい子は心の中で思いつくままの罵倒を見ず知らずの山井高校入学辞退者に浴びせかけた。しかし、その声は届こう筈もなく、メビウスの輪のように心の中をぐるぐる回るのみであった。
「けーこちゃん、何処の高校?」
「……。山井」
 思いきり声を低くしてけい子は言った。嬉しそうだったたつやの顔が更に嬉しそうに輝いた。
「高校はええから! あんたの家、何処なん? そんなかっこうでうろついて、道に迷いなや」
「そやかて、昨日引っ越ししてきたばっかりで……。父ちゃんに煙草買うて来い、って言われて駅行ったはええけど、帰り迷ってしもて……」
「……駅、って……何処の?」
「 へ?」
「此処、小金井と笹原の丁度中間ぐらいやで?」
「ぐ……」
 たつやは小さく呻いておろおろして回りを見回した。けい子はそんなたつやを見乍ら、この方向感覚のなさ、この雰囲気、見かけの暗さ、変わってない……この、私(若しくは自分を保護してくれそうな強い人間)に対する強い依存性も! ――などと思ってうんざりしていた。
「住所、何処? この辺やったら判るし」
 酒屋の配達ねーちゃんをしているけい子にとって、この辺の地形などはお茶の子サイサイなのである。
「住所……まだ覚えてへん……」
 少しは穏やかになっていたけい子の表情が亦もや硬直した。 しかし、たつやはそれに気づいていない様子ですがるような目付きでけい子を見ている。
「笹原駅から何か橋渡って坂下って……」
 あまりにも具体性に欠けるたつやの供述にけい子はこのままバイクにまたがって酒屋に帰ってしまいたい、と思った。
「そういうたら、宮野町とか……」
「宮野町? そしたら此処から五分もかからんけど……何か特徴ないの? 電話は?」
「え? あ……うん。電話番号は覚えてる」
 けい子はほっと安堵の溜息を漏らした。
「そしたら公衆電話は……上にあるから ちょ、先にバイクで上にあがるで。バイク押して行かれへんから」
「うん」
 けい子はスタンドを外し、バイクにまたがり、疾風の如く、とまではいかなかったが、最大力で坂の上まで上がって行った。たつやは暫くそれを茫然と見ていたが、自分も上に行かなくてはいけない事に気づき、つかっけで悪戦苦闘し乍ら上で待つけい子の元へ行った。
「……たーくん、変わってないなあ……」
 けい子は苦笑いを浮かべてヘルメットを取り乍ら言った。たつやはそれを誉め言葉と取ったのか嬉しそうに笑った。
「そう? けーこちゃんも性格あんまり変わってへんなあ。昔の優しいけーこちゃんのままや」
 けい子は怪訝そうな表情をした。「優しい」という供述に似つかわしい行動をたつやに対してとった覚えが全くないのである。
 とかく、思い出というものは美しくなりたがる傾向があるものだ――けい子は二人の記憶の違いをその一言で処理した。けい子にとってのたつやに関する思いではあまり美しくなりたがらなかったようだが。
 たばこ屋前の電話にたどり着く。たつやは安堵の表情で十円を百円玉入れの所に入れた。当然、十円玉は下に落ちてくる。
「――あれ?」
「……入れる所が違うんや! 百円入れる所に十円入れてどないすんの!」
「え? あ、ああ、そうか。間違えてしもた」
 たつやは照れたように笑って十円玉を今度はきちんと入れ、プッシュホンを一つ一つ丁寧に押していった。その横でけい子は完全に呆れ果てた表情で立っていた。
 けい子にとってたつやのどんくささは勿論の事、怒鳴られても怒鳴られても全く反抗せずやはりぼ〜としている事がどうにも我慢ならないのであった。
「ああ、母さん? おれ。道に迷てしもて……うん。家、住所何処やったっけ? ……え? あ、それは大丈夫。今、けーこちゃんと一緒やねん。けーこちゃん。……野際の。……そう。偶然やねんけど、高校も一緒やねん! ……そう! ……そうやなあ。それやったらええねんけどなあ……」
 的を射ぬ――というよりはもはや全く的を外れてしまった会話にけい子はじりじりし始めた。
 たつやの母というのがこれまたさすがにたつやを育てた人だけあって、のんびりとした、年中春の最中にいるような穏やかな人である。たつやの父はまだたつやの母やたつやよりは世慣れはしているが、やはり何処がゆったりとしたテンポを持つ善人であった。
 大層せっかち、の部類に入るけい子にとって、寝屋川家の三人は一種のエイリアンらしきものに思えるのであった。
「うん、そしたら――」
「住所、訊いたん?」
「え? あ、そうそう、住所、何処やったっけ?]
「……」
「宮野町二丁目の十七? ん、判った」
 十円玉を充分に使い切った電話が終わった。けい子はやれやれ、と心の中で呟いた。
「宮野町二丁目の十七やて。けーこちゃん、ついでに遊びに来るか?」
「ええわ。まだ家の手伝いの途中やし。 今が帰りで良かったわ。行きやったらあんたが呼び止めても無視して行ってしもてたで。きっと」
「ああ、そうか。悪い事してしもたなあ。ごめんなー」
「……別に構わんけどな」
 少し困ったように答え乍ら、けい子はこういう妙に素直なとこも変わってへんねんなー、と思っていた。
「……バイク、おれ押そか?」
 下から覗き込むようにしてたつやが言った。けい子は少しびっくりした表情を作ってたつやを凝視していたが、ふっ、と微笑むと「構へんわ。たーくんに押してもろてひっくり返されたらかなわんし」と言った。
「そやけど、重そうやなあ」
「今は空やから軽いで。それに普通は乗ってるし」
「そうかー。家、ビール屋さん?」
「……酒屋さん」
 果たしてビール屋などという商売が存在しているのだろうか、とけい子は頭を抱えつつ答えた。
「ああ、そうか。えらいなー家手伝ってるんかー」
「ん、ん。まあな」
 手伝っている、というよりは手伝わされている、と言った方が……。
「 え? そしたらけーこちゃん、バイク乗れんの?」
 たつやが驚いてけい子を見た。けい子は少しギクリとしたが、できるだけさり気ないふりを装って頷いた。
「二〇〇ccぐらいまでやったら……」
「うわー、すごいなー。車は?」
 全く邪気の感じられぬ様子のたつやに、けい子は安堵感と、たつやの愚鈍さに対する僅かな苛立ちを覚えた。
「まあ、ぼちぼち……」
「すごいなー。いつ、免許取ったん?」
「……」
 そこまで来て、けい子はたつやが二輪・四輪免許の年齢制限というものを全く知らない事を悟った。
「おれなんか、無理矢理すごい厳しい塾入れられて そーかー、高校入ったら勉強せなあかんねんなー。嫌やなー。判れへんとこあったら教えてな、けーこちゃん」
「一問百円」
「……そんなせこい事言わんといてーやー」
「だいたい、クラスが違うやろうに」
「そんなんまだ判れへんやん。一緒のクラスやったらえーのになー」
 思わず殴り飛ばしたくなる程能天気な笑顔を目の前に、けい子は「嫌な予感」とやらがザワザワと背中の辺りで蠢いているのを感じた。

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