襖バンザイ 1

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「……すまん、俺帰ってもいいかな?」
 小宮正浩は居心地悪そうにそう切り出した。
「え? どうした?」
 この部屋の主、福島徹はポカンと口をあけて小宮を見つめ、とりあえずそれだけ言った。
「あ、いや、その……わ、忘れ物。ちょっと家に忘れものしたのを思い出した」
 切り出すタイミングの悪さがその言葉が繕った嘘だと露見させる。
 福島は短く息を吐き出し、小宮を見下ろすように見つめる。元々福島の方が背が高いから、見上げることはできないのだが。
 小宮は福島のそんな態度に自分の切り出し方のまずさを軽く後悔した。

 六畳一間に一畳分の引き戸の押入れのついた和室。
 大学から徒歩十分のこのアパートは福島らが通う西山大学以外にも近所に大学が多いこともあって、オンボロだが満室である。
 明日から始まる期末試験のために一緒に勉強しないか、と切り出したのは小宮の方である。
 通学に片道二時間あまりかかる彼の事情から考えて、福島は快く承諾した。
 しかし、福島の部屋に入るなり、小宮は帰ると言い出したのだ。
「俺、何か悪いことしたか?」
 心当たりはなかったが福島は下出に出てみた。
「いや、そうじゃない。すまん」
 小宮はうなだれて力なく言う。
 福島は、小宮の次の言葉を待つ。
 しかし、それ以上小宮は言葉を継ごうとはしなかった。
「小宮。まあ座れよ」
 どうやら小宮が何も言わずに帰りたいらしい、とは判っていたものの、納得させる言葉が欲しくて福島はそう言い、自身もどっかりとあぐらを組んで座った。
 小宮は不承不承同じように座る。
「なあ小宮、俺達、明日三つも試験あるんだから、時間的余裕ないよな? こんな所でウダウダ言ってる暇ないだろ? 過去問題だってまだ全部目を通してないし、政治学なんて本1冊まるまる範囲だ。徹夜したって間に合うか、ってところだろ?」
 福島はここで一息入れる。
 そんな事は言わなくても判っている。それでもわざわざ口にしたのは小宮がそんな事を言った理由を切り出しやすいだろう、と思慮してのことだ。
 だが、小宮は何も言わなかった。
 気まずそうに畳を見ているだけだった。
「……判った」
「え?」
「帰りたいんなら帰ってくれればいい。――けど、理由だけ教えてくれ。このままじゃ気になって勉強に集中できない」
 福島の眼鏡の奥から問いかける眼差しに目を伏せることで小宮は答えられない意思を示した。
 小宮はやや小心者の小市民だが道理の通じない男ではない。
 気まぐれで「帰る」などと言い出すような男でもないことを、福島は四ヶ月ほどのつきあいで感じ取っていた。
 言い出せないのならそれなりの理由があるのだろう。
 そう考えた福島は、ここで小宮が再度「忘れ物をした」といってくれればそれで納得したフリをしてもいい、と心を決めた。
 しかし、そう思う一方で人として捨てることのできない好奇心が激しくうずくのも確かで、このまま小宮を返してしまっては一人悶々とすることであろう。

 福島が四ヶ月ほどのつきあいで小宮の人となりを見ていたように、小宮もまた福島の気質を見極めていた。
 気のいい頑固者。
 気さくに、理由も聞かずに頼まれ事をほいほい承諾するくせに、少しでもこだわることがあると納得するまでてこでも動かない。
 友達は多いが、親友はいなさそうなタイプである。そして本人はそのことをさほど気にしていない。
 小宮は別に福島と親友になりたいと熱望しているわけでもないし、ここで何も答えずに部屋を出たとしても明日もいつものように接してくれるだろう事は容易に想像がつく。
 福島はそういう気持ちのよさをもった男だ。
 しかし、今この一件で福島が不可を出したりしたら――否、この件が原因でなくとも、不可を出したら、小宮は自分のせいではないか、と気になるだろう。
 言う事が解決ではなく、次の問題を引き連れてくるとしても――そうなるともはや一人の問題ではなくなるのだが――言って、自分も楽になるのだから、と小宮は奇妙な意の決し方をした。
「その――どうも、いるみたいなんだ。この部屋」
「――え?」
 通常ならここで「何がいるのか」に関してボケのひとつでもかますところだが、残念ながら福島はそんな技能を持たない普通の男だった。
「悪霊ではないみたいだけど。見たことない……のか、その反応だと」
「ああ――霊感のれの字もないし、悪寒なんかも今まで感じたことない、けど……」
 「けど」。
 その言葉に続く感情は福島の表情が物語っていた。
 知らずにいればそのままでいたものを、知ってしまえばもう昔には戻れない。
 戻れないところへ引っ張り出してしまった小宮は後悔を覚えた。
 これで、今期の試験で福島が一つでも不可を出せば、小宮は気に病むことだろう。
「借りる時、大家はそんなもんがいる、って一言もいわなかったぞ」
「知らなかったのかもしれないが、知ってたとしても普通言わないだろうな。言ったら借りないだろう?」
「当然だ」
「それじゃ困るからな」
「――」
 理にかなったことを言われて福島は黙るしかなかった。

 福島は、今まで自分に安らぎと快適を提供してくれた自室を脅威の目で見まわした。
 そんな福島を一人残して「じゃあな」とさくっと立ち去れるほど小宮は無情になれない。
「何処にいるんだ? 今もいるのか? 見えるのか?」
 薄気味悪さ大半、ほんのちょっぴり好奇心、の表情で福島は訊ねる。
「いや、見えない。なんとなく感じるだけだ。あっちの方から」
 小宮が指差したのは福島の背後の押し入れ。
 なんだかお約束な居場所に福島は「そうか」としかコメントできなかった。
「夜だと、よく見えるんだよ」
 小宮は力なく言う。
 福島はその言葉の意味が何となく判ったような気がした。
 ――夜になったら見えてしまう。だから帰ってしまいたい。
 小宮の気持ちは判った。しかし、だからといって「帰っていいよ」とは言えなかった。言いたくなかった。
 昨日と同じ今日の夜が来るというのに、今日の夜は昨日とは違う。
 いや、試験前日と言う点では昨日とは大きく異なるのだが、そうではなく、安らぎの布団などを収納した押入れに幽霊も一緒に収納されてると知ってしまった。
 速攻引越ししてしまいたい薄気味悪さをかかえて、今日のこの日を一人で、しかも試験勉強をしながらすごすのは困難を感じる。
 しかし、小宮の気持ちもよく判る。
 一体どうすればいいのか。
 

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