青い夢で (9)
ほんの数か月前。 病室は個室。痛み軽減のために、終わりの時を穏やかに過ごすためだけにいる病室。 アケミはテレビを見ていた筈がいつの間にか眠っていたようで、気が付くと毎日見ていた昼ドラは終わってしまっていた。 (やっぱりビデオも欲しいなあ…) 個室とは言え声を出して話していると不審に思われる。そうして、アケミは声に出さずに話をするようになっていた。 ちらりと部屋の隅を見ると、魔人が腕を組んで立っている。「いつでもご命令ください、ご主人様」と言い出しそうな様相だが、もうお願い事は一つしかできない。継続願望は引き続き実施中ではあるが。 「それが三つ目の願いでいいのか」 (まさか) ゆっくりと体を落とし、窓の外を見る。 6階からの風景は殆どが空である。ほとんど雲のない、だが真っ青とはいいがたい白くかすんだ空をぼんやりとアケミは見つめる。 夢を、見ていた。 アケミの夢はいつも一緒だ。厳密には内容は一緒ではない。ある幸せな一年をリピートしているのだが、登場人物がアドリブをぶっこんで来るので少しずつ異なっている。まあ、一年も前のことを、言葉挙動のひとつひとつまで覚えているわけではないが。 だが、アケミの夢の世界に呼べる仲間がいない時は忠実に過去をなぞる。それはそれでいい。今見ていた夢はそのたぐいだ。こんな真昼間に寝ている人はそうそういないのだろう。 (ハルキ、定年でそのまま退職するんだって。会社に延長するよう言われてるんだから、そのまま勤めればいいのにね) 魔人はアケミと一緒にいる。お見舞いに来ているハルキは話は全て聞こえているだろうから、その事も知ってるだろう。だが、言わずにはおれない。それが、それこそがアケミだ。 (多分、退職したら毎日朝から晩までお見舞いでこっちにくるわよ。いいのに。今までみたいに、来れる時に来てくれたらいいんだから。夢で逢えるんだから) ハルキはそのことに気づくことはないだろうが。夜アケミと同じ時間に眠りについてくれたらそれだけでアケミに幸せな思いを与えることができる。 だが、その事を伝えるつもりはない。何故なのかは自分でもよくわからない。 (魔人さん) 「なんだ」 (三つ目の願い、聞いてくれる?) 「いつでも」 もう、40年以上も一緒だった。必要だった時もあるし、いなくてもよかったかな、と思うときもあった。まあそんな時は声をかけなければよかったのだから、問題はない。 一つの目のお願い。私の話を聞いて。 二つ目のお願い。死ぬまでこの幸せを続けて。 病気になった時。もう、治らないと判った時。痛みを伴うと言われたとき。 三つ目の願いを自分のために使う事を考えた。 自分が辛いから、も当然あったし、まだまだ生きて、楽しんで生きていけると思っていたから。 子供たちも独立し、ハルキと二人で。ハルキはもうちょっとしたら退職するからそうなったら会社のない自由さに戸惑うハルキに本当に不器用ね、アナタはなんて言って笑って。じゃあ何か二人で新しい事始めようかなんて言って。そうしたらその「何をやろうか」を真面目に必死に考えて情報を集めまくるハルキを見て笑って。持ち出した提案を二人で相談したり笑い飛ばしたり。趣味で始めたものが意外と私の方がうまくて負けず嫌いのハルキがムキになるのを見て笑ったり。 もう何考えても笑えて幸せな未来しか想像できなかった。 なのに。 ハルキは、病気になった当の本人よりもつらそうで。そのつらそうなところをみせまいと必死で。演技するの下手なんだからあきらめればいいのに、それでも下手な演技を見せて。もう、泣けばいいのに。そうすれば私も一緒に泣いたのに。 だからこの病気を治してもらおうと思った。そして、また二人で歩いていこうと思った。 でも、それは違うと思った。 (アケミは本当に俺の想像力を超えるようなことするな) もし、ハルキが魔人さんの事を知ったら、そのマスターが私で、どんな三つの願いをしたか知ったら、そんな事を呆れたような笑いを浮かべて言うような願いを考えよう。 病気になったからそれを治してもらう。そんな平凡な願いはいらない。 自分に課せられた運命は受け入れよう。 生き切ったとは思わないけど、それは多分100歳まで生きても、1000歳まで生きても一緒だ。今日が幸せなら明日も幸せな一日を送りたいと思うにきまってる。 「私の次は、ハルキのところへ行って。お願い」 「……」 魔人は答えなかった。 一つ目の願いの時は返事も聞かずまくしたてて話を聞かざるを得ないような状況だった。 二つ目の願いは茫洋としすぎてその結果を得るために試行錯誤しすぎて返事をもらっていたかどうか覚えてない。 しかしこれはさくっと返事をもらえるはずだ。そう思ったのに魔人は返事しなかった。 (え? もしかして、不可? 私の存在が消えたらその瞬間願いも消えるの? それとも叶えたとカウントされなくて魔人さんは時空のはざまで永遠にさまよったりする!?) 「いや……その願い、叶える事はた易いが……それが叶えられたとお前はどうやって知ることができるんだ」 (受けてくれたら、私の中では叶えてもらったも同然よ) 「……わかった。本当に、その願いでいいんだな」 (ええ、よろしくね) 生まれ変わったらまたハルキのそばにいられるように、とかそんな願いしてもよかったかな。 アケミはふ、っと笑い、また窓から空を見上げた。 母親に抱かれた赤子はすやすやと眠っていた。 「おー。相変わらずかわいいなー。カナデちゃん、おじいちゃんですよ~」 赤子を起こさぬように、ハルキは小さな声であいさつをする。 すっかり孫バカになってしまった父親の姿になれぬヤヨイは若干ひきつった笑顔を浮かべる。サクヤは娘をかわいがってくれる人は皆味方なのでニコニコしている。 「お前たち、お昼食べたのか?」 「ううん。出かける時にカナデがぐずって時間なかったから」 「うどんでもつくろうか」 「え」 家事はこなせるものの、人に食事を提供する事はなかった父が自ら「作る」と言った科白にヤヨイはわが耳を疑った。 まあ、手のかかる赤ちゃんを見つつご飯の用意までしてられない、というのが正直なところなのでありがたい申し出だが…… 荷物を片付け、カナデを布団に落ち着かせた頃「うどんできたよ」と声がかかる。 鍋焼きうどん。 口に含むと――面が伸び切っている。 「お父さん……麺ゆですぎ……」 「なつかしいだろ? この伸び具合!」 「……」 「何なら、夕食も済ませていくか? 気合が入りすぎてジャガイモが正体失って肉ととろみのついたその他になった肉じゃがを作ってやるぞ?」 「……」 本を見て料理を作ると、どうしてもその通りに作ってしまう。 それで何の文句もないのだが、あの、癖になる、どうしたらそういう風になるのか謎な料理が食べたくなる。 ――本当に、その願いでいいのか。 あの魔人が。 さっさと要件を済ませて、次に行く先もわからず、急ぐ必要もないのに、急いで無理やり願いをひきだそうとする魔人が、ハルキの願いに疑問を差し込んだ。 ――いいんだ。 望んだ時にアケミの味が作れるように。 日頃は、本などを見て普通の食事を作ればいい。だが、時に、アケミの存在をすぐそばで感じられるように――愛情のふりかけの力をもってして「おいしい」と言わしめて個性的なアケミの料理が食べたくなる。 毎日、幸せな日々を夢見て、一緒に幸せでい続けた彼女の料理を。 「――うわー、お父さん……これ、すごい……ちょっと私にもどうやったらこうなるか後で作り方教えてよ……」 「――え」 ヤヨイのハルキへの申し出に、サクヤは軽くショックを受けたように妻を見た。日頃のヤヨイの料理より個性的な出来に仕上がっているのだろう。 「いいけど……サクヤ君とカナデちゃんには食べさせないほうがいいんじゃないか……?」 「あ……」 夫の表情を見て、ヤヨイは我に返る。ハルキはその様子を見て笑う。 ――つまらないことに願いを使ってしまってると思うか? わざわざ願いの確認をした魔人に、ハルキは訊いた。 ――いや、人の願いに尊いもつまらないもない。どのみに叶えてしまった願いはわすれてしまう。 ――あんたが忘れても、俺は覚えてるよ。あんたにとっちゃ短い間だろうがな。……ありがとう。 魔人がどれだけ本当のことを言ったのかは知ることはできない。 ――三つの願いは聞き届けた! それではさらばだ! 魔人らしく、魔人は煙に紛れて姿を消した。少し煙たかったが、火災報知機は反応しなかったので、普通の煙ではなかったのだろう。 わかりやすい魔人の姿をして、次の人の幸せへ続く願いを叶えに言った―― そう感じるだけで、ハルキの心にはあたたかい灯りがともるのだった。 (おしまい) 初書2017.2.18-2018.1.4 |