雨が降る

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 雨が降ってきたみたいだな。
 お前、知ってるか? 雨の時、って雨の匂いがするんだと。雨の降る少し前から、空気の匂いが変わるんだそうだ。湿気が高くなる、っていうんなら判らんでもないけど−−匂い、ってのはな。
 いや。人から聞いたんだ。もう、十年以上も前だけど。
 まあ、な。その通りだ。会ったのが、十二年前……あの頃は俺も若かったな。
 その娘−−目が見えなかったんだ。
 おっしゃる通り。まあ、俺は、自分のそういうお節介なところ、って結構気に入ってるけどな。あ、でも、別にナンパするつもりで声かけた訳じゃないぞ。
 でも、その「有難う」って言った時の笑顔が何か−−眩しくてさ。
 いいよ。笑いたきゃ笑えよ。
 二年、つき合ってたんだ。
 そりゃあ、まあ、彼女が目が見えない、って事に関して不便を感じなかった、って言ったら嘘になるけどな。
 でも……優しくて、細やかな心遣いの、いい子だったよ。五つ年下だったけど、いろんな事を彼女に教わった。
 そう。雨の匂いも、な。言われても、俺、匂いの鈍感な方だから、よく判らなかったけど。
 彼女とつき合って、煙草もやめたな。
 遊びのつもりはなかった。本当に好きだった。
 まあ、まだ俺も若かったし、学生だったし−−まあ、でも、何もなかったら、もしかしたら一緒になったかもしれないな。
 人間には視覚だけじゃない、って知った。
 弱い者には、弱い者なりの強さがある、って事も知った。
 彼女とつき合って、人生観が変わったよ。少しばかり、自分や周りの人間の事を考えるようになった。
 目に見えない分、音で、肌で、何より心で俺を判ろうとしてくれた。俺を知ろうとしてくれた。そんないじらしさが痛い程俺にも伝わってきて、本当に守ってやらなきゃ、と思った。大好きだった。
 −−いや。俺がふった訳じゃない。
 彼女が変わって、その変化に俺がついて行けなかったんだ。
 手術をして−−角膜の移植手術をして、彼女の目が見えるようになったんだ。
 そりゃあ嬉しかった。彼女も。俺も。
 今まで見えなかった世界が見えるようになって、彼女は夢中になった。
 そして−−変わってしまった。
 目が見えないがために培ってきた慎重さや何かを少しずつなくしていったんだ。
 俺は、彼女が好きだった。「彼女」の事が好きだったから、変わっていく彼女も愛していけると思っていた。
 実際、好きだったと思うよ。
 だけど−−視界が広がる事でつき合う人の選択の余地が広がった彼女にとって、俺は唯一の人ではなくなってしまった。「彼」から「親切なお兄さん」に降格してしまった。
 でも、それでも構わない、その方が気楽だ、とも考えるようになったな。
 少しばかり悩んだ時もあった。彼女からも言われたよ。「あなたは私の目が見えないままの方が良かった、って思ってるんでしょう」って。
 さすがにうん、とはいえなかったけど、違うとも言えなくて、黙ってる他なかった。
 どんどん彼女とは疎遠になっていった。
 彼女の目が見えるようになって二年、彼女は亡くなったよ。
 交通事故。
 夜、暴走中の車に轢かれた、って。
 ……笑っちまったよ。あんまり皮肉で、思わず笑っちまって……。
 彼女にとって、目が見えなかった、って事はハンディキャップ以外の何者でもなかったんだろうな。だから、見えるようになってから、それまでの過去を全部抹消しようとして、努力して、お望み通り忘れたんじゃないかな。
 そのあげく、目が見えない頃だったら考えられない事故で死んでしまった。
 そんな事なら弱視のままでよかったのに、って思った。
 彼女は、そのことに引け目を感じて、劣等感抱いて哀しくてつらかったかもしれないけど、そんな負めいた感情の生み出す気弱さや細やかさや慎重さが、俺は嫌いじゃなかった。好きだった。
 俺がそんな事言えた義理じゃないのは判ってるけどな。
 そんな事言うなら代わってくれ、っていわれたら、やっぱり厭だったろうし。
 ただ、彼女が「見える事」を望んだのは、俺のためでもあったんだ。
 俺と一緒の世界に生きたい、って言ったんだ。
 −−何で、うまくいかないんだろう、って思ったよ。俺のせいか、彼女のせいか、って悩んだよ。
 悩んでも悩んでも、もう、彼女は戻らないんだがな。
 いや−−もう、傷じゃない。
 まあ、あんなに深くてつらい恋は二度としてないけどな。
 いざ、目が見えるようになると、思いの外俺がカッコ良くなかったから、愛想尽かしたのか、なんて考えた事もあったな。
 ただ単に、かみ合わせがうまくいかなくて、理由もなしに遠ざかってしまった、って考えるよりは、そんな馬鹿げた理由でもあった方がましだと思ってそんな風に考えたんだが。
 いや−−そうじゃない。そうか……そうだな。別に、彼女の目が見えなかったから、好きになった訳じゃない。目の見えない女性が好き、って訳じゃない。
 まあ、目の見えない人を見かける度、声をかけるけど−−もう、彼女のように、好きになる事はない。
 「彼女」が好きだった。
 いろいろ思い返す事もあるけど、何度考え直しても、別の結幕にならない。目の見えるようになった彼女は、広がった世界に飛び立って、俺の知らないところで亡くなってしまう。
 今は、もう、思い返しても、辛いとかは思わない。
 思い返す事もほとんどないな。ひと昔以上も前の恋物語なんて、そうそう思いだすもんじゃないだろ?
 −−何でだろうな。
 っていうか、何でお前に話す気になったのか、不思議なんだけどな。
 ……彼女のこと、思い出さない、ってのは嘘か。
 こんな風に、雨が降ってるのを見てると−−
 雨の匂いの話してた、俺が本当に好きだった、俺の事本当に好いてた、あいつの事、思い出すんだ。


(おしまい)
初書 1996.9.24.-9.25.

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