信じよう

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 よう。どうしたんだ? 顔色が悪いぞ。
 奈美? ああ、奥さんか。駄目だよ。死んじまう。諦めるんだな。なに、あんたはまだ若いんだし。奥さんの後釜になろうなんて女はその辺にごろごろしてるよ。人生まだまだ油に乗ってる、って頃だろ? たかだか一人の女の死に何びくついているんだ。あんただって、今迄何度となく奥さんの死を望んだじゃないか。「あいつさえいなければ」って。「結婚なんてしなければ」って。知らないとは言わせないぜ。口にはしてないけど。心の叫びを俺は幾度となく聞いたよ。
 何沈んでるんだよ。もっと楽しそうな顔しろよ。これであんたを縛るもんがなくなっちまうんだぜ! 乾杯の一声でもあげたい気分じゃないか。
 そうにらむなよ。俺は、ただあんたの本心を述べてるだけじゃないか。外面ではどうとでも演じればいい。だけど、せめて、俺の前では素直になれよ。
 ほら、今日は月だって出ちゃにない。あんな、町の灯に負けちまうような弱々しい光しか出さない星に願い事するなんて反吐が出そうなことやめろよ。奴等は自分の中の燃料食い尽くそうとするのに精一杯で、人の言うことに耳かす暇なんてありゃしないんだから。心の闇を開放させて踊らせなよ。そうすりゃ判るから。「俺は正しい」って。
 泣くなよ。情けないったらありゃしねえ。男の甲斐性だ、っつって浮気して平然としてたのは何処のどいつだよ。妻なんて、ただ働きの女中じゃなかったのか? 「行かないで」って何度言わせて、どれくらいの率でそれに応えた、っていうんだよ。あんた、それだけ我儘言っといて、奥さんに死に水取ってもらえるつもりだったのかい?
 諦めろ、って。人間なんて、悲しみには慣れちまうようにできてるんだよ。奥さんがいなくなっても、他の女がその空間を埋める。人の世なんて、そういう風にできてるんだから。もし、それが判ってて「だから忘れてしまう前に哀しめるだけ哀しむ」っていうんなら俺は止めないけどな。最近、ちょっと人間関係に淡泊な奴が多いし。
 いや。それでもあんた、行き過ぎだよ。奥さん死んじまう、って事に哀しんでる、っていうより「哀しむ」って行為に自己陶酔してるみたいだ。
 え、あ、いや、失言! すまん! 謝るよ。あんたがあまりにも後ろ向きだから、ちょっと言い過ぎちまったんだ。
 おい。想い出ひとつひとつ回想して眺めてその度悲嘆にくれるなんて、あまりにも後ろ向きだぞ。取りあえずまだ生きてるんだから、それはしてやるなよ。奥さんも可哀想じゃないか。死にかけとはいえ、まだ生きてるんだから。
 生き残れる可能性は、ゼロ、だけどな。
 人の手じゃ、な。


 時計は二十一時を過ぎていた。三十分程、今村はうとうとしていたようだった。隣では義母が不安げに時計を見ていた。手術が始まって二時間。今村は不安そうに時計を見つめている義母の姿しか見ていない。
「すみません。寝てしまって」
「いえ。……少しうなされていたようですよ」
 義母はぎこちなくそう答えると、心此処にあらず、といった様子で再び時計を見つめた。
 うなされていた−−そういえば何か夢を見ていたような気がする。あまりよい夢ではなかったようだ。今迄出会ったこともない青年が出てきて−−何かを話しかけてきた。
 ……何を?


 まだぐずってるのか? 往生際が悪いな。夫婦そろって聞き分けのない奴等だな、全く。もっと前向きになれ、って、俺は言ったろ? そう、前向き。せめて悩むんなら、そんな自分の力でどうにもならないような事じゃなくて、自分でどうにかなるような事にしろよ。
 死んじまうんだから。
 いつかは、あんたも、ね。だから、楽しくいきる事を俺は勧めてるんだ。奥さんの葬式なんかの間は世間体、ってもんがあるんだから、そりゃある程度哀しんでなきゃいけないけど、その後、やって来るのは、あんたの為の、自分の為の人生なんだぜ? そんな、愛情も感じていなかった女の死にいつまでも捕らわれてちゃつまらないじゃないか。
 −−へええ。何て? 今、何て? 俺には信じられないな。お笑いだ。
 「愛してる」だって? 意味判って使ってるの? その言葉。小学生がバレンタインにチョコレート送るのとは訳が違うんだぜ? 五年間夫婦やってるくせに、そんな事を臆面もなく口に出せる、っていうのか。へええ。驚いた。それで、あんたは奥さんを「愛してる」から浮気をしたのか。人間、って変な生き物だな。いや、人間の中でもあんただけ変わってんのかな? そんな事どうでもいいや。
 いや。いじめすぎたな。判ってるよ。つきあいは長いから判ってるよ。あまりにも典型的な答えだったんでちょっといじめたくなっただけだ。俺にあおられて勢いで言ったんだろ? 「愛してる」って。
 何も言うな、って。判ってんだから。あんた、俺が自分よりずっと若いかっこしてるから、って俺の事生意気とか青二才のくせに、とか思ってるだろ? これでもあんた達人間よりは長く生きてるんだぜ。別に年寄りの格好してもいいんだが、それはそれで「おいぼれのくせに」って言われるからな。
 あんたがあくまで「愛してる」って言うつもりならそれはそれで構わないさ。どうせ奥さんは死ぬ。
 医学、ねえ……。そんなもの、あてになりはしないがな。あんなヤブ医者共に全てをかけるくらいなら、俺に頼みな。
 俺に。
 人間にとって不可能な事でも、俺にとっちゃ可能、って事は多くある。信じないつもりなら別にそれはそれで構わない。
 保証? してやるよ。あれぐらいなら死にゃしない。
 でも、いいのか? 生きてりゃ邪魔になるぞ。なんてったってあんたは男で奥さんは女だ。それであんたと奥さんは「法的に」一緒にいなきゃいけないんだ。あんたは縛られてるんだぞ。


 二十二時。長椅子にはいつの間にか奈美の兄、明が来ていた。
「あ……今晩は」
「今晩は。疲れてるみたいだな」
 軽く会釈をしながら、今村は明の目元が奈美に似ていることに気づき、奇妙な感動を覚えた。
「うなされてたぞ」
「え……ちょっと夢を……」
 夢……どんな?
 −−願望が見せた夢だ。


 本当に、いいんだな。後悔しても知らんぞ。俺は事後処理なんてしないからな。
 それより前に言っとこうか。
 あんたは奥さんを「愛してる」と言った。真偽の程は確かじゃないが。ま、そんな事は別にいい。
 奥さんがあんたをどう思ってるか、俺は知らん。
 一瞬、不安そうな顔をしたな。え? そんな事ない、って? まあいいさん。人の心なんていくらでも取りようがあるもんだし。
 とにかく、奥さんは浮気性の男とおさらばできて喜んでたかもしれない。それを無理矢理こっちの世界に引っ張って来てるんだ。何が起こるのか、俺は予知能力は持ってないから判らん。
 人の心をそんな風に断言するなよ。確信もないくせに。そういう風に勢いだけでものを言って、後々困るのはお前自身なんだぜ。俺の言ってる事にあらがいたい気持ちは判らんでもないが、俺だって絶対に可能性のない事を言ってる訳じゃない。わずかでも可能性のあることで一番最低な事を言ってるだけだ。あんたみたいに意地だけで極楽トンボ的思考してたら絶望の淵にたたされたときににっちもさっちも行かなくなるぞ。
 確かに、あんたは恋人とするにはいい条件の男だろう。けど、夫とするには、ちょっと浮ついてるぜ。あんたがそんなだから子供もできなかったんだ。あんたはまだまだ子供だよ。自分を束縛しない保護者を必要としているんだ。身勝手なもんだよ。奥さんはあんたによく尽くしたと思うよ。もう休んでもいいと思うよ。
 あんたの方は奥さんに「愛」を感じてたかもしれない。でも、奥さんはあんたに「愛」なんて感じちゃいない。そんな軟弱な言葉振りかざしていられたのは新婚一年ぐらいなもんだろ。毎日毎日同じ様な暮らしをして、それを支えていたのはあんたの言う「愛」なんかじゃない。ただの「惰性」だ、って奥さんが気づいたちょうどその頃にあんたは浮気をした。これ以上はない、って言いたい程いいタイミングだと思うよ。さすがは夫婦だ。
 奥さんがあんたを引き留めたのは「愛」なんてものの為だと思うかい? 嫉妬、独占欲。いやいや、安定した収入源を失ってしまうかもしれない不安。ルームランナーでしか走られない自分に対して思うままに野外を駆け回っていたあんたに対する嫉妬。どれが正解か実際の所は知らないけど、そのとき奥さんの心に渦巻いていた感情の可能性を述べて解析するだけで立派な論文が書けそうだな。
 人なんてのは、全くやっかいなもんだよ。何種もの感情が何層にもわたって混ざり合って、そのくせ表面には殆ど出ないんだからな。
 そうせっつくな、って。
 大丈夫。生き返らせてやるよ。
 でも、そんな事して辛いのはあんただぜ。
 暫くは奥さんも入院してるし、そうなったら金もバカにならない。それに、生き返ったって、それからどれくらい生き続けるか判ったもんじゃない。言っとくが、奇蹟は一度しか起こせないから奇蹟、って言うんだからな。
 それに、奥さんがもうあんたのこと好きじゃないなら、奥さんが元気になったら離婚しよう、って言い出すかもしれん。
 そんな事ない、って? そう思うのはあんたの勝手だがね。
 あんたは、奥さんを本当に愛していると言った。俺はそれを信じるよ。切羽詰まった時、人は時々本心を述べる。俺はそれを信じてやってもいい。
 でも、奥さんは信じやしないだろうさ。
 手術が終わって、入院してるときはいいさ。人間、体が弱いと心も弱くなって、周りの人間が自分を支えてくれるのを敏感に感じ取って、とても有難く思うもんだ。
 一年後を見てみろ。全てもとの黙阿弥。あんたは他の女に目が行き、奥さんは惰性の生活を続ける。 ほお。浮気しない、って? まあ、一年ぐらいなら何とでもなるだろうな。
 そうじゃない。俺が言ってるのはあんたの事じゃない。奥さんだ。
 今度は「信じてる」か。本当に、人間、ってのは口がうまいな。これじゃ、俺の方がうまく丸め込まれそうだ。
 一体何を「信じてる」んだ? 奥さんがあんたを「信じてる」事を「信じてる」のか? 奥さんがあんたを「愛してる」って事を「信じてる」のか? 表情と言葉しか伝達方法がないくせに、えらく自信があるんだな。
 そうだな。信じてやってもいいぜ。その証さえ見せてくれればな。
 そう。証だ。
 今すぐじゃ駄目だ。あんたは不変の愛情と信頼を俺に伝えようとした。その証を今すぐだなんて、俺にとってあまりにも不利だ。人間の爆発的なパワー、ってやつを俺はさんざん見せつけられて、それで何度も痛い目にあったからな。
 少なくとも、一年後。一年でいい。本当は十年、二十年、って言いたいところだが、そこまで俺も暇じゃない。
 先に願いを叶えてやるよ。
 だが、約束を守らなきゃ、一年後といえども、その願いを消滅させるぜ。
 そう、契約だ。


 手術は成功した。医師達はこの手術の成功を「奇蹟だ」と言った。今村はその言葉を聞いたとき、かすかに悪寒が走るのを感じた。
 −−あれは、夢だ。
 しかし−−夢だというのなら、この人差し指の傷は何だ? うたた寝しているときに自然に切り傷ができたとでも言うのか?
 手術は成功した。たった一つの問題を残して。
 奈美が、声が出ないと訴えたのだ。
 医師は発声器官に障害が生じるなど、ありえないと主張した。本当に声が出ないとするなら、それは精神的なものだ、とも。
 しかし、それ以外はきわめて良好な状態であり、奈美はまもなく退院した。
 奈美が倒れる前とは得って変わった幸せな生活が二人を待っていた。今村は優しく、奈美の顔から笑顔が消えることはほとんどなかった。再び新婚生活が訪れたかのような毎日に、二人は精一杯生きていた。


 どうしたの? キョロキョロして。あなたが行くのは向こうよ。ほら、あの穴が見えるでしょ?
 あの世への入り口よ。死ぬんだから。
 ちょっと、逃げないでよ。逃げたって、無駄よ。本当に死ぬときになれば何処にいたってあの穴の方があなたに近づいてくるんだから。
 私が誰か、そんなことどうでもいいでしょ。
 そうよ、死ぬのよ。
 ちょっと、泣かないでよ。泣いたって事態は変わらないんだから。何がそんなに哀しいの。そりゃあ、人生まだまだ未練がある、っていうのは判るけどね。今迄だって此処で「死にたくない」って泣き叫んだ人間何人も見たんだから。
 何が心残りなの?
 だんなさん? だんなさんが何なの? だんなさんと離れたくないの? だんなさん一人残すのが心配なの?
 両方。欲張りな人ね。まあ人間なんて、みんな強欲の固まりみたいなものだけど。
 決していいだんなさんだとは思わないけどね。そりゃ、好きあって結婚したんだろうから、愛情ぐらいはあっただろうけど、人の感情なんて変わっちゃうものよ。口で言ってる事と本心が違う事も多いし。暗示にかかりやすいから、人にこーだろ、って言われちゃったらそうかな、っていう気にすぐなっちゃうしね。
 判ってるの。ふうん。それならそれで、もう少し聞き分け良くなってもいいと思うんだけど。
 あ、別にいじめてるわけじゃないのよ。私、って歯に衣着せぬ毒舌家だから。自分の不幸だけを哀れんでる人間見てるとちょっとあたりがきつくなっちゃうのよね。
 不幸なんて、主観的なもので、みんな一度は味わってるものだと思うけど。
 まあいいわ。私は別に不幸についてあなたに講釈するために此処にいる訳じゃないんだから。
 まだ泣いてるの? 往生際が悪いわね。さっぱり諦めちゃいなさいよ。あんあ浮気性の男と手が切れるのよ? めでたいじゃない。だんなさんの方だって、これから晴れて自由の身、って喜んでるわよ。双方が利益の一致をみてるじゃない。
 へえ。まあ、あなたが死んだすぐ後は哀しむかもしれないけれど、死人に何の義理があるでなし。そのうち新しい人を見つけて再婚なりするわよ。立場が逆なら、あなただってそうしたでしょ?
 そんなに興奮しないで。私はただ正直なところを述べただけよ。あなただって、心の奥底ではそう思ってるんでしょ?
 そう。あくまでそう言い張るつもりなの。つまり「信じてる」って訳ね。
 じゃ、賭ける?
 賭けるつもりがない、っていうんなら別に私は構わないわよ。おとなしく此処で死んでしまいなさい。
 そうよ。賭けよ。あなたはだんなさんの愛とやらに賭ければいい。あなたがその賭けに負けたとき、あなたをあの世に引き渡す。
 そうね。一年。そのかわり、だんなさんが気に入ってたあなたの声を預からせて頂くわ。賭けにあなたが勝ったら声を返してあげるわ。
 ずいぶんと私に分が悪いわね。私にしてはお人好しな約束だったわ。ちょっと非人間的ね。あら、私が非人間だなんて、冗談にもならないわね。
 一年というのも、分が悪いけど。本当は十年か二十年にしたい所だけど、そこまで私暇じゃないし。
 そう。賭の仕方をきちんと決めなきゃね。私に決めさせてもらえる? それぐらい構わないでしょ? とても簡単な事よ。
 とても簡単な事よ。


 今村は奈美に声を出させることを考え、奈美を精神科へ連れて行こうとした。しかし、奈美はいやがった。無理強いさせる事もかなわず、今村は笑って「嫌なら仕方ないな」と言って諦めた。
 声のこと以外では奈美は至って健康体だった。当たり前の日常が二人にはとても嬉しいものに見えた。


 いいのか。あと三ヶ月しかないぜ。


 「−−!」
 真夜中、眠りについたばかりのところで今村は飛び起きた。そのあまりの勢いに、隣で寝ていた奈美も目を覚ます。寝ぼけなまこを手でこすりながら電気をつけ、今村の体をたたく。
「え、あ、いや……ちょっと夢を見たんだ」
『大丈夫?』
 枕元に置いてあったメモ帳に書き込み、今村に見せる。
「ああ、すまんな。起こして−−電気、消すぞ。−−おやすみ」
 奈美はうなずき、布団に入る。今村は電気を消し−−しばらく布団にくるまった奈美の後ろ姿を見ていた。
 おれは、夢だ。夢じゃなかったのか? 夢だ。夢なんだ。
 早鐘を打つ心臓を何とか落ち着かせ、今村はゆっくりと布団にはいった。


 夢か。御冗談言うなよ。こうやって血判まで取ったろ? 夢で済まされちゃこっちもかなわんよ。
 いや。別に俺はそれでも構わんよ。あんたが約束を忘れてるんなら、一年後に、いや、今じゃ三ヶ月後か、そのときに契約が破棄されるだけの事だ。こうやって、三ヶ月しかないぞ、って言いに来るなんて、全く俺らしからぬ行為だよ。ホント、お人好しだよ。
 奥さん、声が出ないのか。
 でも、約束は約束だ。今更変更できやしない。やるだけやってみろよ。
 何なら俺がスケジュールたててやろうか? 最近ちょっと暇だしな。


 三ヶ月。あと三ヶ月すれば、私はあの人と生きていける。
 三ヶ月。あと三ヶ月の内に何とかしないと奈美が死んでしまう。


 少しずつ、今村の帰宅が遅くなる。今村はそれは「残業」「接待」の為だ、と言った。
 いつかと一緒だ、と奈美は思った。−−けれど、今度は違う。私はあの人を信じている。前とは違う。あの人はまっすぐ私の目を見ている。
 いつかと一緒だ、と今村は思った。−−けれど、今度は違う。俺は奈美を信じている。前とは違う。だが……いいのか? こんな、奈美を試すような事をして。仕方がない。全てが終わったとき説明してやろう。どうせ信じてもらえないだろう。だが、俺が本当に奈美を愛している事さえ伝えられれば……。でも、声の出せない奈美に、どうやって声を出させたらいいと言うんだ?


 時折、午前様になる時があった。散歩に出ると言ってなかなか帰ってこない時があった。
 何故? 何故、あと一ヶ月待ってくれないの? あと一ヶ月だというのに……。
 あと一ヶ月しかないんだ。奈美。一ヶ月しかないんだ。


 新月の夜。
 珍しく早く帰ってきた今村と奈美は静かに夕食を食べていた。
「お前が倒れてからもう一年も経つんだな」
 今村はできるだけ何気ない風を装って言った。奈美は驚いた様子で顔を上げると、笑って頷いた。
「本当に……あの時……お前が死んでしまうんじゃないかと思ってたよ……」
 そこにあの悪魔が−−くそっ! 血迷ってたとはいえ、俺は何て約束をしてしまったんだ!
 だが−−それも今日で終わりだ。今日、うまく行きさえすれば、お前はずっと俺と一緒に生きていけるんだ。
『私ももう駄目だと思ってた』
 奈美は食事の手を休めてそう書き、今村に見せた。今村は頷いた。
 電話が鳴る。
 今村は立ち上がる。ちらりと奈美を見て受話器を取った。
「今村ですが−−」
 わずかに声のトーンが変わる。今村は奈美に背を向けた。
「−−判りました」
 受話器をおろす。振り向いた今村は嫌な顔をしていた。
「今からちょっと出かけなくちゃいけない」
 目を大きく見開く奈美。思わず目を伏せる今村。
「用意は自分でするから。食事を続けてくれ」
 今村はそういって奥の部屋に入った。奈美は立ち上がりかけ、先にメモ帳にペンを走らせた。
『いますぐ行かなきゃいけないの?』
 奥でそそくさと着替える今村の肩を叩き、それを見せた。
「ああ。山田が酔って暴れたらしくてな。警察に行かなきゃ」
 −−本当に? 本当よね? 信じる、って言ったもの。
「それじゃ行って来るよ。なるべく早く帰ってくる」
 ネクタイを締めるのもそこそこに玄関へ行く。
 −−止めてくれ、奈美。
 本当よ。……今迄こんな風に出かけていった事があった?
 あったわ。
 その時、あの人は何をしていた? 本当は−−
 今村は靴べらを使って靴を履いていた。
「行って来る」
 声がした。
 ドアが開く。今村は出ていく。ドアが閉まる−−
「行かないで!!」
 私の負けよ。どうとでもすればいいわ。
 振り向いた今村に奈美は飛びつくように抱きしめた。短い髪が今村の頬をくすぐる。その柔らかい体を精一杯抱きしめる。
「奈美!」
 俺は勝った。悪魔、今の声を聞いたか!?
 聞いたよ。たしかに聞いたわ。
 ドアが閉まる。二人は玄関でしばらく抱き合っていた。
「奈美、俺は勝ったんだ。お前はこれでもう死ななくて済むんだ。俺は約束を守ったんだからな!」
「……約束?」
 呆ける奈美の目からは涙が流れている。
「信じなくったっていい。お前が死にかけているとき、悪魔と約束したんだ。お前と愛の証を立てさせる代わりにお前を生き返らせる、ってな! お前に『行かないで』って言わせる、ってな!」
「……そんな……そんな……」
 奈美は脱力してその場にへたりこみかけた。その体を今村が支える。
「済まなかった。お前を試すような事をした。一年のうちに言わせる、って契約してしまったから−−でも、これで大丈夫だ。お前も声が出たことだし……二人でやっていこう。さっきの電話は山田に頼んでおいたんだ」
「私は……一年、あなたに話しかけてはいけなかったの。あなたを信じて決して話しかけない−−その賭に負けてしまったの……『行かないで』なんて言っては駄目だったの……」
「−−奈美……?」
 背広を脱ごうと奥へ行きかける今村は玄関で泣き崩れる奈美を見た。
「誰を責めろ、っていうの? 何をしても、しなくても−−私は死ぬのよ! 責められないわ! どちらにしても私は死ぬ運命にあったのよ……」
「−−何だ? 奈美、いったい何を言ってるんだ?」
「一年、あなたに話しかけなければ……生きていけたの。でも、あなたの契約で死んでいた。一年目の今日、あなたに話しかけてしまった、そして……」
「−−奈美!?」
 不安を覚えて今村は奈美の元へ駆け出した。
「契約は守られるべきだ! お前は死なない!」
 そう。契約は守られるべきだ。だから奥さんは死ぬのよ。
「奈美!」
「きゃあああああ−−!」
 今村が奈美に触れた瞬間、奈美の体が燃えだした。その熱さに今村は離れる。しかし、消火する、という考えは浮かびはしなかった。ただ、他に燃え広がることなく妻を燃やし尽くそうとする炎を茫然と見ていた。
 一年前に戻ってるだけさ。骨は残るから安心しな。一年、幸せに暮らせたんだ。喜んでもいいと思うぜ。
 五分もして、火が消えたとき、そこには骨が残っていた。
 何茫然としてるのよ。今晩は月だって出ちゃいない。好きなだけ泣いていいのよ。
 男の姿の女性−−女の姿の男性−−は暫く今村を見ていたが、今村が少しも動かないのを見て、溜息をつく。
 ま、そういう訳だ。
 意味も判らず、そう言って、消えた。
「こんな事……誰に、なんて、言えば、いいんだ……」
 自分が言葉を発したことすら意識していない男とその妻の遺骨を、誰も見てはいなかった。

          (おしまい)
        初書 1990.7.26-7.27.           

(おしまい)
初書 1987.11.28-12.3


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