ハムが来た
両親がハムを送ってきた。 のし書きは「お歳暮」。 どちらかというとこちらの方がさんざか世話になってるから私からお歳暮を贈るべき、という気がするんだが、きっと子供と言うものは生きてるだけで親に世話してる役割になってるんだろう。 一応親に礼の電話を入れておく。 日頃連絡不通気味だからだろう、大量の話題を振られ、何の話をされたか判らない状態になる。 ハムは嫌いじゃない。 塊の贈呈用のハムはおいしい。 けれど、面倒なのだ。 切るのが。 お前はどんなものぐさだ、と叱らないで欲しい。 人は他人には判らない物差しを自分の中に持っていて、人から見て些細なことでも自分自身の中では重要な役割を示すことがあるのだ。 ハムを切ることが重要な役割を示すかどうかは私自身判っていないが。 そういうことではなく、「面倒」のものさしの中では、ハムを切ることが重要な役割を果たしているのだ。 なんだ、果たしていることを私は判ってるんじゃないか。 こういう、一度自分の外に出して見直さないと自分の言ってることの意味が判ってないところが私の欠点なんだ。 きっと、親は私のそういう欠点を判っていて、毎年ハムを送ってきては「お前は自分の欠点を自覚しないとダメだよ」とたしなめてくれてるんだ。 そんなわけないだろ。 それならむしろ、私の料理ベタを判っていて「たまにはハムでも切って包丁の使い方の練習をなさい」とハムを送ってる、という方が説得力がある。 誰にどういう説得をする必要があるんだ。 いや、ハムに関してどうのこうのと考える暇があるなら実際にハムを切った方がいい。頭の中がハムに向いてる間にやってしまわないと、ただでさえ面倒な作業が更に億劫になる。 ハムを切る面倒くささはハムを切るだけではなく、その梱包を解くところにもあるのではないか。 豪華な箱は分解しにくく、頑丈なために折りたたんでもすぐに元の形に戻りたがり、堅牢な角でゴミ袋に穴を開ける。 古紙・ダンボール回収業者に引き渡すのであれば紐でしばるだけでゴミ袋に入れる必要はないのは判っているが、お昼は家におらず、この地域には古紙回収の分別がない。 高級感を出すためかハムは形に添ったクッションに収まっている。 このクッションがまたかさばるのだ。あわよくばごみはスーパーの袋に納めてポイしたいのに、このボリュームではそれがかなわない。まあどの道ダンボールがあるから今回のごみはスーパーの袋に収まりようもないのだが。 このリサイクルの時代、ハムの配送も玄関口でハムだけ渡してもらって後の包装はもって帰ってもらうのはどうか。電化製品とかダンボールや梱包材を持って帰ってもらうではないか。 いや、もう梱包レスで行こう。 クール宅急便のコンテナの中に山積みにされた伝票をじかに貼られたハムの山。 ・・・・・・・・・・。 思い付きを想像してみるもんじゃない。 お歳暮とか、って目上の人に贈るもんだよな。それはまずいよな。 この、ビニールと紐もやっかいなんだ。 引っ剥がすと手がベタベタになる。かといってビニール手袋をしてると手が滑って作業できない。ゴム手袋だと臭いが移りそうでいや。 どのみち切る時に手が汚れるんだから一緒、って考え方もあるけど、切る時に汚れるのは支えてる左手だけで包丁を握っている右手は汚れない。 なのに、ビニールや紐をはがしてるときはおのずと利き手の方が活躍するもんだから右手も汚れてしまう。 そしてその手で包丁を握るとほら、操作性が悪いったら。 そういや料理番組で料理の先生が手を洗うんじゃなくてタオルで手を拭いてるけど、あれって効果あるのかな? ・・・・・・手拭いで拭いたらこの手拭いもう手洗い後に使えないじゃないか! 結局もう一枚新しいタオルをおろす。 なんでハム一つ(本当は2つだけど)に洗い物まで増やさないといけないんだ。 そうこうしてようやくハムを切る作業に取り掛かる。 端っこはまな板から浮いてしまっていてうまく切れない。 まあでもなんだか端っこはおいしいような気がするので切ったそばから食べてしまうので形なんてどうでもいい。 重量感のあるハムを殆ど使っていない、ましてや手入れなんてさっぱりしていない包丁で切るのは手が折れる。 まあどうせホームパーティのオードブルで出すわけでもなし、自分で気が向いたときにつまむ程度なんで形なんて気にしない。 最初が薄くてどんどん分厚くなって厚さが3倍ぐらい違っても気にしない。 最初が分厚いのに下に到達するまでに姿を消してしまっても気にしない。 左右で厚さが違っても気にしない。 切れなくて包丁をむやみに動かして段々ができても気にしない。 そんなにこだわりがないんだったらいっそのこと塊のまま食べた方がいいんじゃないかという思いつきが頭をかすめるがそれも気にしない。 ようやく二つのハムを切り終える。 これを食べ終わるのは一体いつになるんだろう。 切らない方が保存性がいいのは判っているけれど、食べるたびごとに切るのは面倒だし、どうせ食べるのは私だけだし。 皿に乗っかった、ぱっと見は塊、よく見るとてんでバラバラの厚さのハム。 ・・・・・・・・。 ハムより薄い友情、って言うけれど。 こんなに分厚く切れちゃったハムより薄い友情、って、結構分厚いんじゃないか。 いや、薄かったものが分厚くなったり、分厚かったものが薄くなったり切れてなくなったり。 人生を髣髴とさせるね。 両親は私に人生について考え直せ、って言いたいけど言葉にしても聴いてもらえないからこんな風に毎年暮れにハムを送ってくるんだね。 きっと。 多分。 ・・・・んなわけねーだろ・・・・・。 (おしまい) 初書2006.4.4-4.7. |
ひょっこりあとがき
むちゃくちゃ久々の新作です。
去年は一作、そして今年も恐らくこの一作で打ち止めなんじゃないかとちとおびえていたり。
それ以前にこれを一作と数えていいものか。
最近は会社の昼休み時間が15分延長になったもので、多少の時間ができたため、だらだらとこんな話を書いてみました。
「ハムより厚い女の友情があってもいいじゃないか」というフレーズは以前使ったことあるのですが、それ以前に自分で切るん
ならハムの厚さが薄いとは限らないなー、というのが元ネタです。
それをオチに持ってくるのは弱かった。反省。
本当はこのお話、タイトルを「いつかどこかでひとりきり〜ハムをもらった〜」にする予定でした。
んで、短かったら戯言にアップしたかったんですが、さすがにこの長さではそれも無理かと。
この「いつか〜」のタイトルは不定期にアップしてる「いつかどこかである二人」を踏まえてのものだったのですが「いつか〜二人」
の売りは短い中にピリリと効いた微妙さ(微妙さかよ!)だと思うので、同様のタイトルをつけるのは反則、という気はしたんで
こちらに変更。
だから、ってお話のラインナップに加えるほどのものでもないような。
だからジャンルはひとりごと。
でもノンフィクションじゃないのよ〜。
ハムは贈られてくるけど、切るの面倒だけど、フィクションなのよ〜。
笑説には微妙なところ・・・かな。なんだかな〜、の小市民っぷりににやにやしていただければ幸いです。
非常にコメントしづらいお話だとは自分でも思いますが、気が向いたら感想などいただけると嬉しいです。