上りと上り

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 登山家は言う。「そこに山があるから登るのだ」
 プレイボーイは言う。「彼女が俺を見ていたから声をかけたんだ」
 そこに存在するだけのものが意志を持って自分に訴えている、という表現を用いることで自分のなすことの自然さ、責任のなさを主張する。
 他人から見れば「何故そうするのか判らない」事を、自分でも説明できない衝動に駆られた行動を、そんな言葉で説明した気になっているのだ。
 ならば、私が階段を見るとつい登ってしまうのも「そこに階段があるからだ」といえばもっともらしく聞こえるのだろうか。

 自分でも、子供の頃からの癖をどうしてこんな年まで引きずってしまったのか、と疑問に思う。
 あまりおおっぴらに公言するような習癖でないので、古い友人や家族ぐらいしか知らないと思うのだが、段差を見ると、ついつい登りたくなる衝動に駆られてしまう。
 しかし、特に下りたいとは思わない。
 下りたくない、訳ではない。ただ、この段を上りたい、と言うほどの強い欲求が湧き出てくることがないのだ。
 階段を降りることに対して感じる欲望は普通の人のそれと何ら変わりはないだろう。

 また、同じ「重力に逆らう動き」を必要とする坂道の登りについてだが、これまた歩いて行きたい、と言う欲望は覚えないのだ。
 だから、「登りきった時の眼窩の風景を望むべく歩いている」訳でもないようだ。
 他人の家の、ポーチに至るほんの数段ですら登りたくなってしまうのだ。登りきった達成感を求めて体が動き出しているのではないだろう。

 かといって、自分の肉体の筋肉増強の方法として階段の登りに期待をかけているわけでもない。その目的は全くない訳でもないだろうが、勢いに任せて階段を上り始め、足が痛くなったら止まってしまう。その程度の根性しか持ち合わせていない。
 歩くことは嫌いじゃない。
 五分、十分の行程なら、車や自転車を出すのを億劫がって歩く方を選ぶ。
 しかし、そうなると道のあちこちに階段の誘惑が設置してあって、予定時間より大幅に遅れてようやく目的地に着くありさまである。

 さすがに人様の家に勝手に上がり込んだりしてはまずいのは判っているし、人目につくのは判っているので年がら年中道中の段差に足を踏み入れているわけではない。それぐらいの分別は持ち合わせている。
 ぼんやりしていていつの間にか用もない家の門前に来ていて自分でもギョッとした経験は何度があるが、それぐらいはご愛嬌だろう。

 そんな私にとって寺社巡りは格好の趣味である。
 ただ単に階段を上りたいから神社や寺に行く、と言ってはバチが当たりそうだが、楽しく回っているのだから文句を言われる筋合いはない。
 延々と続く階段を見ると、妙に心がウキウキしてくるものだ。なんだか登るのがもったいないような気すらしてくる。

 最初の1段目に足をかけ(私の場合はだいたいきき足の右足が左足に先んずる)、その足に体重を移動させつつ右足のふとももの筋肉に力を入れて、膝を伸ばして体全体を持ち上げ、膝が伸びきる前にもう一方の足に階段を味あわせる。
 その一連の動き――ごく普通の動きなのだが――をひどく大切なもののように、頭の中で反芻させる。
 そして、その最初の一歩の記憶が、いつの間にか二歩目、三歩目の記憶とすりかわり、私は階段を上りつづけている。
 この、自然な生業が呼ぶ幸せを判ってもらえるだろうか。

 階段の種類についてはうるさくは問わない。
 ただ、一歩に一段登れる程度の間隔の狭さは維持して欲しい。
 一段登ったと思ったら平坦な道を歩き、亦段差がある、という坂への変更が可能な緩やかな階段を、私は階段と認めていない。
 山道にありがちな一歩半分の幅のある階段も気に食わない。足の疲労も考えて上に上がるには足を交互に使いたいのに、一度右足で段に足をかけてしまうと延々と右足が酷使される。それがいやで左右交互で段を上がろうとすると、ちょこまか歩くか前後開足運動を一段毎にしなくてはいけない。
 段差は、高すぎるのもだめだが低いのもストレスを感じる。
 できれば道程はまっすぐがよい。螺旋階段はおしゃれかもしれながい、登りに集中すると言う点では、いまいちだ。
 人とすれ違うことがないのなら、幅はそこそこ狭い階段のほうが落ちつく。しかし、人一人しか通れないような細い階段で下る人とすれ違うのはかなり気を遣うのでできれば避けたい。
 自然道に木を埋めこんで作られた階段は味わいはあるが階段としてのランクは低い。私の中ではあれはもはや「階段」ではなく「段差」である。
 また、造りがずさんなのか、何かの効果を狙っているのか、一段だけ高かったり低かったりする階段は劣悪だ。一定のリズムで登ることになれた体はイレギュラーな段に対応できず、けつまずいてしまう。

 階段を作る人間の殆どは、登る人間の快適さについて考えてないのではないか。
 低いところと高いところがあって、その二箇所をつなげたい。坂だと勾配がきつすぎる。そんな時に機能的に階段を選択しているだけなのではないか。
 階段について考慮している、という人間もその殆どは外観的なことしか考えていない。
 人間がいかに階段を登り続けることで快楽を得られるかなんて、考えたこともないのだろう。

 こんなに階段を気に入ってる私だが、実は長すぎる階段は鬼門である。
 頭の中では、私はトントントン、と一定のリズムで気持ちよく階段を登りつづけているのに、現実の私ときたら息は上がり、足は重力に逆らう動きが鈍くなり、そのうち膝に手をついてあがる始末である。これでは階段を登る意味がない。


 なんの飾り気もない、コンクリート造りの白い塗装の階段だった。
 幅は五メートル程。
 手すりがないのが少し怖いが、前から人が来ないのならば何の問題もない。
 今時滑り止めもついてない簡素な造りが好ましい。
 暫く行くと踊り場があり、階段は左へ曲がっている。
 はやる心をなだめつつ、最初の一歩を踏み出した。
 そして、二歩三歩。
 ……歩きやすい。
 気付きにくいが、階段の平滑な部分が微妙に前のめりになっているようだ。
 一歩踏み出したその次の一歩が軽快に出る。
 そしてまた一歩、そしてまた一歩。
 軽快な階段の上りが途絶えても、左に曲がれば亦階段が続いている。
 その導きに従い、私は亦一歩を踏み出す。
 疲れを知らない子供のように、私は階段を登り続ける。
 恍惚とした幸せの中で、私は自分の置かれている情況の異常さについて考えなかった訳でもない。
 踊り場はあるが、扉はない。
 誰ともすれ違わない。
 時間の経過がわからない。
 そもそも、私はどこでこの階段を登り始めたのか。
 この空間は何の為に存在しているのか。

 しかし、そういった知性は歓喜に満ちた魂に押し潰される。
 この足はひたすらに段を上る。
 痛みも疲労も感じない。
 永遠の幸せの光が宿る。
 私はこのために生まれていたのだ。



 白と黒のコントラスとがおりなすエッチング。
 男はそれを見てにやついた。
 現実にはありえない、ふりだしとゴールのつながった階段とそれを登る人々がそこには描かれていた。
 
 
                                                (おしまい)
                                             初書 2002.6.20.

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笑説なのか微妙なところだとは思うのですが・・・・
まあ、主人公の独白に「どこが階段の種類についてうるさくは問わないじゃーー!」などとツッコんで
いただければ楽しく読めるかと・・・・・(読者を選ぶ笑説ナノネ)


野暮を承知で説明しておくと、最後の絵画はエッシャーの「上りと下り」のことです。
あの絵を見てこの話を思いついたのか、この話を書いてる時にしめにこれ持ってこようと思ったのか、
今となっては記憶がおぼろです・・・・

最近に書いた話だと思ってたけど、もう二年以上経つのね・・・